イタリアの世界遺産と地方都市の旅
「中央イタリアについてお話したいと思います。」
「はい。」
「日本人はイタリア人に都市と人間のあり方について学んだ方が良いんじゃないかと言われたりします。」
「そうなんですか。」
「世界遺産とちょっと関係の無さそうな話になるんですが、少しだけいいですかね。」
「はい、いいですよ。」
「今でこそだいぶ穏やかになってきましたが、明治維新以降に日本は東京に全てが一極集中していきましたね。」
「そうですね。」
「そのため、圧倒的な魅力で日本中の若者が吸い上げられ、地方よりも東京の方が良いという価値観が強くなって、それが日本中の意識に植え込まれましたね。」
「はい、そうですね。」
「地方は東京的な発展を目指して、その土地その土地にある固有の景観を破壊してしまい、均一で東京的な景色を作り続けたんですよね。」「そうですね。」
「その結果として、地方の魅力が失われて、地方軽視の意識がどんどん高まっていきますね。」
「はい、そうですね。」
「日本の地方にある世界遺産と言っても、単なるスポットとして残っているだけですね。」
「はい。」
「町の全てが世界遺産に登録されているイタリアの諸都市のような例は見当たりませんよね。」
「そうですね。」
「例えば、真っ白な姫路城は美しく立派な世界遺産なわけですが、姫路市全体が固有の魅力を持っているかというと、実際には失われてしまっているんですよね。」
「はい、そうですね。」
「他の例を言うと、京都には世界遺産の建築物がたくさんありますね。」
「はい。」
「しかし、京都全体が一部の隙も無く完璧な形で、しかも統一感を持って昔ながらの街並みを残しているかと言えば、全然違いますね。」
「そうですね。」
「京都には世界遺産のスポットがたくさんあるというだけで、京都の町並みそのものが世界遺産というわけではありませんね。」
「はい、そうですね。」
「現在ではそういったことの揺り戻しもあって、日本でも地方の魅力が再評価されつつあるんですけどね。」
「はい、そうですね。」
「しかし、まだまだ東京一極集中の価値観が圧倒的に強いですね。」
「そうですね。」
「そんなわけで、日本の単調で画一的な景観に飽きてしまったのであれば、一度イタリアに行ってみませんか?」
「行ってみたいです。」
「世界遺産が目当てでもいいですし、美味しいイタリア料理が目当てでも構いませんよ。」
「はい。」
「サッカー観戦が目当てでもいいですし、おしゃれなカフェで飲むエスプレッソが目当てでも構いませんよ。」
「はい。」
「とにかくイタリアへ行けば、結果的に日本人に無い感覚をいろいろな場面で目の当たりにできますよ。」
「そうなんですか。」
「その感覚とは何でしょうか?」
「何でしょうね?」
「イタリア人の町を愛する気持ちですよ。」
「そうなんですか。」
「首都のローマに住む人でなくても、フィレンツェ、ピサからピエンツァに至るまで、あらゆる規模の都市に暮らすイタリアの人々が、自分の町を愛していますよ。」
「そうなんだ。」
「「ピエンツァ」という都市と言えば、ピエンツァ (Pienza) は、人口2,231人のイタリア共和国トスカーナ州シエーナ県のコムーネの一つである。市街地の歴史地区 (centro storico) は1996年に世界遺産に登録されている。シエナの貴族ピッコロミニ(Piccolomini)家が神聖ローマ帝国皇帝のフリードリヒ2世からヴァル・ドルチャの地を与えられ、ピエンツァもその一部に含まれていた。当初、ピエンツァはコルシャーノという小さな村落に過ぎなかった。だが、このコムーネ出身のピウス2世が教皇となると、ピウス2世はこの地を自らにちなんでピッコロミミと名づけ、理想のルネッサンス期の街づくりに挑んだ。」
「「ピサ」という都市と言えば、ピサ (イタリア語: Pisa ) は、イタリア共和国トスカーナ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約8万6000人の基礎自治体(コムーネ)である。ピサ県の県都である。」
「「フィレンツェ」という都市と言えば、フィレンツェ(イタリア語:Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)である。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。」
「首都「ローマ」と言えば、ローマ(伊: Roma、羅: Roma)は、イタリアの首都である。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。」
「イタリアは昔、それぞれの都市が独立国家だったのですが、イタリアの町の景観が美しい理由は、多様性が残されているからですね。」
「どういうことですか?」
「ローマはローマらしいですし、フィレンツェはフィレンツェらしいですね。」
「はい。」
「ピサはあくまでピサですし、ベネチアはあくまでもベネチアですよ。」
「はい。」
「「ベネチア」という都市と言えば、ヴェネツィア(イタリア語:Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)である。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ベネチアなどとも表記される。中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。」
「どの町もそれぞれ特有の美しさがあり、その町並みを町の人が本当に愛していますよ。」
「そうなんだ。」
「どうして、それほどの多様性が残されているのでしょうか?」
「どうしてでしょうね?」
「その理由は、イタリアの各地方が昔は独立国家だったからですよ。」
「そうなんですか。」
「それぞれの都市がそれぞれの経済活動を行い、それぞれの町で暮らしていましたよ。」
「はい。」
「その精神的な名残があるので、それぞれの町がそれぞれのプライドを持っていますよ。」
「はい。」
「そのプライドが郷土愛につながり、その郷土愛が町を美しく保たせるのですよ。」
「そうなんだ。」
「世界遺産でピサの場合についてですが、例えば世界遺産のあるピサは、ピサ単体で海洋都市国家として存在していましたよ。」
「そうなんですか。」
「ピサと言えば、ピサの斜塔を含めた世界遺産が有名ですね。」
「はい。」
「「ピサの斜塔」と言えば、ピサの斜塔 (伊語:Torre di Pisa) は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼であり、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポットである。高さは地上55m、階段は297段あり、重量は14,453t、地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられている。一時傾斜の増大と倒壊の危惧があったがその後の処置により、当分問題ないと判断されている。5.5度傾いていたが、1990年から2001年の間に行われた工事によって、現在は約3.99度に是正されている。 かつてのガリレオの実験に対して行われた異端審問の弾圧に関連してローマ法王が侘びの公式声明を塔の頂上にて行った事も有名。」
「その町は、昔地中海交易で莫大(ばくだい)な利益を得ていましたよ。」
「はい。」
「その富を他の都市国家に誇示するために、ピサのドゥオモ広場にドゥオモ大聖堂などが建造されましたよ。」
「そうなんだ。」
「ピサのドゥオモ広場と言えば、ピサのドゥオモ広場(Piazza del Duomo)は、イタリアにある世界遺産の物件名である。世界遺産に登録されたのは、1987年。ピサのはずれにあるドゥオモ広場に建つ、洗礼堂、大聖堂、鐘楼、墓所回廊の4つが印象的である。ピサのこのころの繁栄を象徴した建物群である。特に鐘楼はピサの斜塔として有名。ピサのドゥオモ広場は、ピアッツァ・デイ・ミラーコリ (Piazza dei Miracoli) やカンポ・デイ・ミラーコリ (Campo dei Miracoli) とも呼ばれ、奇跡の広場という意味である。」
「ピサのドゥオモ広場のドゥオモ大聖堂と言えば、ピサ大聖堂は、イタリア・トスカーナ州、ピサに位置する「ピサのドゥオモ広場」に建てられた、ロマネスク時代を代表する建築物の一つである。ドゥオモ広場はピサのアルノ川の河畔に位置する広場で、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。広場には大聖堂の他に、洗礼堂や墓所回廊、そして傾きで有名な鐘塔(通称:ピサの斜塔)があり、これら複数の建築物が集合体として全体的に統一された外観を呈していることから、通称「奇跡の広場」(Campo dei Miracoli)とも呼ばれている。」
「世界遺産のあるピサなど、実のところ知名度の割に規模は小さいですよ。」
「はい。」
「川を挟んで住宅が密集し、その中に斜塔などの世界遺産が現存しているだけですよ。」
「そうなんだ。」
「一歩離れると畑しかなく、日本で言えば地方の中堅都市に過ぎませんね。」
「はい。」
「しかし、ピサに暮らしている人はピサに誇りを持っていますよ。」
「そうなんだ。」
「かつて、海洋国家として地中海交易で力を持っていた歴史を、住人はDNAの中に記憶していますよ。」
「はい。」
「そのプライドが郷土愛につながり、その郷土愛が町の世界遺産を大切に保存させ、町並みや景観を美しくさせていますよ。」
「わかりました。」
「イタリアの世界遺産の魅力についてですが、日本の中堅都市に行くと、その町がどこなのか分からないくらい個性を失っていますね。」
「はい。」
「しかし、ピサはピサであり、フィレンツェはフィレンツェですよ。」
「はい。」
「日本にも、昔は地方都市が美しかった時代がありますね。」
「そうなんですか。」
「東京への一極集中が進む前の時代ですね。」
「はい。」
「その後、地方特有の固有文化が破壊されていきましたが、最近ではそのような地方独特の文化が見直されつつありますよ。」
「はい。」
「まだ、間に合いますよ。」
「そうなんですか。」
「日本人はイタリアへ行き、世界遺産を訪ね、各地の町を訪ねて、人と触れ合い、都市のあり方を勉強してくるといいのかも知れませんよ。」
「はい。」
「大切な何かを思い出させてもらえるはずですよ。」
「はい。」
「そのような旅には、ローマを含めた中央イタリアと世界遺産の旅がうってつけですよ。」
「そうなんだ。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~ヴァル・ドルチャ~
「ヴァル・ドルチャとは、イタリア中部のトスカーナ州にある田園地帯のことですね。」
「そうなんですか。」
「イタリア中部のトスカーナ州(トスカーナ地方)と言えば、トスカーナ州(伊: Toscana)は、イタリア共和国中部に位置する州である。州都はフィレンツェ。イタリア・ルネッサンスの中心地となったフィレンツェをはじめ、ピサ、シエーナなど多くの古都を擁している。文化遺産や自然景観に恵まれ、多くの観光客が訪れる。」
「ヴァル・ドルチャ(オルチャ渓谷)と言えば、ヴァル・ドルチャ (Val d'Orcia)は、トスカーナ州シエナ県にある広い谷で、北東にはモンテ・アミアータとウンブリア州との州境がある。ヴァル・ドルチャとは、「オルチャの谷」と言う意味を表し、オルチャ渓谷とも訳される。名前の元となったオルチャ川が中央を横切り、美しい風景が拡がり、中世に起源を持つ様々な街があり、その中の二つピエンツァとモンタルチーノは特筆に値する。」
「ヴァルと言うのは、谷のことを指していますよ。」
「はい。」
「つまり、ヴァル・ドルチャとは「ドルチャの渓谷」という意味になりますよ。」
「はい。」
「イタリアの広大な丘陵の中には、5つのコムーネ(自治都市)があり、自然と街が一緒にこの風景を作っていますよ。」
「そうなんだ。」
「コムーネ(自治都市)と言えば、コムーネ(伊: comune)は、イタリア語で「共同体」を指す語であり、現代ではイタリアの自治体の最小単位(基礎自治体)である。また、スイスのイタリア語圏でも基礎自治体をコムーネと呼ぶ。」
「その風景はとても美しく、2004年にイタリアの世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「田園地帯ということで、ここではワイン用のブドウや穀物類、オリーブなどが栽培されていますよ。」
「はい。」
「しかし、昔からこのように農耕が行われていたわけではありませんよ。」
「そうなんですか。」
「元々、この土地の土壌は耕作には向いていないものでしたよ。」
「はい。」
「ところが、14世紀に入ってシエーナ共和国に支配されるようになってから事態は変わりますよ。」
「どういうことですか?」
「シエーナ共和国と言えば、シエーナ共和国(Repubblica di Siena)は、中世のイタリア半島に存在した国家である。シエーナの都市国家から興り、トスカーナ地方の覇権をフィレンツェ(フィレンツェ共和国およびその後身となるメディチ家の国家)と争った。1115年、北イタリアの大領主であったトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが後継者なく没すると、その領域は細分化されて自治的な勢力が勃興し、都市国家群が生まれることになる。この時代、都市シエーナは、金融の一大センターとなり、また羊毛取引の重要なプレイヤーとして成長を遂げた。」
「シエーナ共和国は、イタリアのヴァル・ドルチャを農耕地として開発し始めましたよ。」
「はい。」
「シエーナ共和国による土地開発は、ヴァル・ドルチャを機能的で美しい土地へと変化させていきましたよ。」
「はい。」
「そして、現在のイタリア世界遺産のヴァル・ドルチャの形になるまでは、約300年の年月を要することになりますよ。」
「約300年ですか?」
「世界遺産のヴァル・ドルチャの丘陵地帯と、そこにぽつぽつと立っている糸杉はとても有名ですよ。」
「はい。」
「皆さんも、テレビやポストカードなどで一度は見たことがあるのではないでしょうか。」
「いいえ、知りません。」
「延々と伸びていく緑と、街にある建物のクリーム色は一度見ると忘れられませんよ。」
「そうなんですか。」
「この世界遺産の景色は、現代を生きる私たちに感動を与えてくれますよ。」
「そうなんだ。」
「それは、中世の人々にとっても同じでしたよ。」
「はい。」
「中世ヨーロッパの時代に起こった革新的な文化運動、ルネッサンスですよ。」
「はい。」
「中世ヨーロッパの時代に起こった革新的な文化運動、ルネッサンスと言えば、ルネサンス(仏: Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。」
「そのルネッサンス期の画家たちの多くが、このヴァル・ドルチャに目を奪われたそうですよ。」
「そうなんですか。」
「実際、ピエトロ・ロレンツェッティやジョヴァンニ・ディ・パオロなどがこの地を絵に残していますよ。」
「はい。」
「ジョヴァンニ・ディ・パオロと言えば、ジョヴァンニ・ディ・パオロ・ディ・グラツィア(Giovanni di Paolo di Grazia, 1399年 or 1403年 - 1482年)は、イタリアのシエナ派の画家である。タッデーオ・ディ・バルトーロの徒弟をしていたようで、その後、たくさんの絵画、写本(ダンテを含む)の挿絵を描いた。パオロは15世紀のシエナ派の中で最も重要な人物のひとりである。」
「ピエトロ・ロレンツェッティと言えば、ピエトロ・ロレンツェッティ(Pietro Lorenzetti or Pietro Laurati, 1280年頃 - 1348年)はイタリアの画家である。おおよそ1306年から1345年にかけて活動した。ピエトロ・ロレンツェッティはシエナで生まれ、その地で没した。ジョヴァンニ・ピサーノ、ジョットの影響を受け、アッシジでは、シモーネ・マルティーニと一緒に働いた。弟のアンブロージョ・ロレンツェッティとともに、シエナ派に自然主義を紹介した。3次元的かつ空間的な配列を試みた兄弟の作品は、ルネサンス美術の先駆けとも言える。」
「ヴァル・ドルチャには、大きなホテルなどはありませんよ。」
「はい。」
「しかし、周りには5つの街があるのでそこで宿を探しがてら、ショッピングも良いかも知れませんね。」
「そうなんだ。」
「おススメの観光シーズンは、5月~7月ですよ。」
「はい。」
「このシーズンは、新緑がとても美しいですよ。」
「はい。」
「この時期、トスカーナ地方の気候は比較的安定しているそうですよ。」
「そうなんだ。」
「ヴァル・ドルチャへは、首都ローマから電車で約2時間半、キウジ駅で降りるのがいいでしょう。」
「わかりました。」
「首都「ローマ」と言えば、ローマ(伊: Roma、羅: Roma)は、イタリアの首都である。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。」
「そこから、バスなどを使って行く方法が一般的ですよ。」
「はい。」
「さらに、シーズン中にはヴァル・ドルチャ列車というものも運行していますよ。」
「はい。」
「いつくかの駅を経由してヴァル・ドルチャを周遊してくれるそうですよ。」
「そうなんだ。」
「是非、有効活用してください。」
「わかりました。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~ウルビーノ歴史地区~
「イタリアは、世界で最も世界遺産の登録件数の多い国ですね。」
「そうですね。」
「2012年現在、その件数は、実に47件もありますよ。」
「はい。」
「その中の一つが、1998年に世界文化遺産に登録されたウルビーノ歴史地区ですよ。」
「そうなんだ。」
「ウルビーノ歴史地区と言えば、ウルビーノ歴史地区は、1998年に登録された世界遺産(文化遺産)で、イタリア中部マルケ州にあるペザロ・エ・ウルビーノ県の県都である。中世ルネサンスの芸術都市で、多数の聖母子像を残したラファエロ・サンツィオの生誕地、ヴェネチア派の画家で「ウルビーノのヴィーナス」で有名なティツィアーノ・ヴェチェリオゆかりの地として知られる。芸術家を庇護したフェデリーコ公の支援で、画家のジョヴァンニ・サンティやパオロ・ウッチェロ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、建築家のドナート・ブラマンテなどの芸術家たちは、多くの傑作を生み出した。パラッツォ・ドゥカーレ(ドゥカーレ宮殿)は美しい中庭のある宮殿で、現在はマルケ国立美術館になっている。人類の歴史上、重要な時代を例証するものとして、世界遺産に登録された。」
「ウルビーノは、イタリア半島の東岸中部にあるマルケ州の都市ですよ。」
「はい。」
「イタリア半島と言えば、イタリア半島(英語:Italian peninsula, イタリア語: Penisola italiana)は、ヨーロッパ大陸のアルプス山脈の南側から地中海に南東に延びた形の半島である。別名アペニン半島。東側をアドリア海、南側をイオニア海、西側をティレニア海に分断している。アペニン山脈が貫いていて、半島のつけ根には北のアルプス山脈と南のアペニン山脈に囲まれるようにパダーナ平原がある。」
「イタリア半島の東岸中部にあるマルケ州と言えば、マルケ州(伊: Marche)は、イタリア共和国中部のアドリア海沿岸にある州である。州都はアンコーナ。イタリア共和国中部のアドリア海側に位置する州である。州都アンコーナは、ペスカーラから北北西へ約140km、フィレンツェから東へ約184km、ボローニャから東南へ約200km、首都ローマから東北東へ約210kmの距離にある。」
「イタリア半島の東岸中部にあるマルケ州の都市ウルビーノと言えば、ウルビーノ(イタリア語:Urbino )は、イタリア共和国マルケ州北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約1万6000人の基礎自治体(コムーネ)である。ペーザロ・エ・ウルビーノ県の県都のひとつである。山間部の小都市であるが、多くの文化遺産を擁する芸術の街として知られる。中世にはウルビーノ公国の首府であり、ルネサンス期にモンテフェルトロ家の下で最盛期を迎えた。ラファエロはこの都市の出身である。」
「サンマリノとローマの中間ぐらいにある丘の上の街で、町全体が城壁に囲まれた世界遺産になっていますよ。」
「サンマリノと言えば、サンマリノ共和国(イタリア語: Serenissima Repubblica di San Marino)、通称サンマリノは、イタリア半島の中東部に位置する共和制国家である。首都は国名と同じくサンマリノ市。周囲は全てイタリアで、世界で5番目に小さな国(ミニ国家)である。また、現存する世界最古の共和国である。」
「首都「ローマ」と言えば、ローマ(伊: Roma、羅: Roma)は、イタリアの首都である。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。」
「しかし、場所はとても不便な所ですよ。」
「そうなんですか。」
「通常は、ミラノからイタリア国有鉄道ユーロスターでボローニャへ向かいますよ。」
「はい。」
「ボローニャと言えば、ボローニャ(イタリア語:Bologna)は、イタリア共和国北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約37万人の基礎自治体(コムーネ)である。エミリア=ロマーニャ州の州都であり、ボローニャ県の県都でもある。アペニン山脈とポー川の間にあるポー川谷に位置する。1088年創立と、西欧最古の大学ボローニャ大学(ラテン語名アルマ・マタル・ストゥディオルム)がある。また、ボローニャはイタリア有数の発展した都市である。」
「イタリア国有鉄道ユーロスターと言えば、ユーロスター(英: Eurostar)は、英仏海峡トンネルを通ってイギリスと大陸ヨーロッパとを結ぶ国際列車である。ロンドンとフランスのリール、パリ、およびベルギーのブリュッセルとの間で運行されており、最高速度 300km/h の高速鉄道となっている。」
「ミラノと言えば、ミラノ(伊: Milano)は、イタリア及び南ヨーロッパ最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(英:Milan)、フランス語ではミラン(仏:Milan)、ドイツ語ではマイラント(独:Mailand)、スペイン語ではミラン(西:Milan)、ラテン語ではメディオラーヌム(羅: Mediolanum)と言う。ミラノはイタリア全土では首都ローマに次ぎ第2位、北部イタリアにおいては最大の都市で商業、工業、金融の中心。観光地としても名高い。」
「そして、ローカル電車に乗り換えて同じマルケ州の町ベーザロへ向かいますよ。」
「はい。」
「マルケ州の町ベーザロと言えば、ペーザロ(イタリア語:Pesaro)は、イタリア共和国マルケ州北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約9万4000人の基礎自治体(コムーネ)である。ペーザロ・エ・ウルビーノ県の県都のひとつである。州都アンコーナに次ぎ、マルケ州第二のコムーネ人口を持つ。アドリア海に面し観光の中心である。古代にはピサウルムと呼んだ。」
「さらに、ペーザロからウルビーノ歴史地区は、乗合バスで1時間程度かかりますよ。」
「そうなんだ。」
「乗り合いバスは、1時間に一本程度の運行ですよ。」
「はい。」
「ミラノから全行程で、5時間以上もかかりますよ。」
「結構かかりますね。」
「あるいは、イタリアの首都ローマからウルビーノ歴史地区へは、一日2往復の直行バスなら2時間弱の行程ですよ。」
「はい。」
「バスは、ウルビーノ歴史地区の街全体を囲う城壁の西門ヴァルボーナ門前に到着しますよ。」
「はい。」
「ウルビーノ歴史地区は、中世イタリア、特に15世紀から16世紀にかけてイタリアの芸術文化の中心となったウルビーノ公国のことですよ。」
「そうなんだ。」
「公国と言えば、公国は、「公」、即ち貴族を君主として有する国である。「王国」が一般に「国王」を君主として有するのに対し、公国は「公」を君主として有する。英語のduchy(duke が治める国、領地)とprincipality(prince が治める国、領地)が「公国」と訳される。」
「ウルビーノ公国と言えば、ウルビーノ公国(イタリア語:Ducato di Urbino)は、1443年から1631年まで、現在のイタリアのマルケ州北部に存在した国家である。ウルビーノ公国の誕生は1443年にエウゲニウス4世がオッダントーニオ2世・ダ・モンテフェルトロをウルビーノ公に任命した時に遡る。ウルビーノの街は国家の首都となり、イタリアのルネサンスの中心の一つになる準備がなされた。1523年にペーザロに遷都されると衰退が始まった。」
「この地を統治していたモンテフェルトロ家の当主でもあり、イタリア王国の武将で負けなしを誇ったフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが熱烈な芸術と文芸の保護者でしたよ。」
「はい。」
「イタリア王国の武将で負けなしを誇ったフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと言えば、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro, 1422年6月7日 - 1482年9月10日)はイタリア・ルナサンス期のウルビーノ公国の君主である。傭兵隊長として活躍する一方、周囲に多くの文化人を集め、ウルビーノ宮廷に優雅なルネサンス文化を栄えさせた。フェデリーコ3世とも。」
「モンテフェルトロ家と言えば、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(Guidobaldo da Montefeltro, 1472年1月17日 - 1508年4月10日)は、イタリアの傭兵である。ウルビーノ公。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと妻バッティスタ・スフォルツァの子として、グッビオで生まれた。」
「そのため、フェデリーコが豊富な資金力を背景にイタリア各地の芸術家を招いたことで、人が集まり繁栄した街でしたよ。」
「はい。」
「その後、17世紀以降はローマ教皇領とされたため、数々の歴史的資産が無傷で残った地ですよ。」
「そうなんですか。」
「イタリアの世界遺産ウルビーノ歴史地区の中で最も有名なのが、15世紀後半から16世紀前半にかけての盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家であり建築家のラファエロですね。」
「そうなんだ。」
「ルネサンスを代表するイタリアの画家であり建築家のラファエロと言えば、ラファエロ・サンティ(伊: Raffaello Santi、 1483年4月6日 - 1520年4月6日)は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家である。一般的には単にラファエロと呼ばれ、日本ではラファエッロ、ラファエルロ、ラファエルなどという表記ゆれが見られる。ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている。」
「ウルビーノ歴史地区は彼の出身地であり、その生家がありますよ。」
「はい。」
「14歳まで、この家に棲んでいたと言われていますよ。」
「はい。」
「建物の内部は一般公開されており、ラファエロと、その父ジョヴァンニ・サンティの作品が飾られていますよ。」
「そうなんだ。」
「ラファエロの父ジョヴァンニ・サンティと言えば、ラファエロ・サンティは、中部イタリアの小都市ウルビーノに生まれた。父親ジョヴァンニ・サンティは、画家として活躍していた。当時ウルビーノはモンテフェルトロ家が支配し、都市として栄えていた。その宮廷は15世紀人文主義文化の一大拠点となっていた。ラファエロの父親ジョヴァンニは文筆にも優れていた。『韻文年代記』という先代の君主フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの政治的・軍事的・文化的な功績を称えたものを残している。」
「ラファエロの著名な作品は、ほとんどがバチカンにあるため複製画が展示されていますよ。」
「はい。」
「バチカンと言えば、バチカン市国(ラテン語:Status Civitatis Vaticanae、イタリア語:Stato della Citta del Vaticano)、通称バチカンは、ヨーロッパにある国家で、国土面積は世界最小である。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカンとも表記される。バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンの統治者はローマ教皇である。」
「モンテフェルトロ家の邸宅でもあったパラッツォ・ドゥカーレ宮殿は、現在はマルケ国立博物館として、一般公開されていますよ。」
「そうなんですか。」
「マルケ国立博物館と言えば、当時の繁栄を物語るドゥカーレ宮殿は、現在マルケ国立博物館として、この地に生まれた巨匠ラファエロの絵画をはじめ多くのみごたえのある美術作品を展示しています。」
「モンテフェルトロ家の邸宅でもあったパラッツォ・ドゥカーレ宮殿と言えば、ウルビーノのドゥカーレ宮殿は、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの館で、ルネサンス建築の傑作である。フェデリーコの命によりルチアーノ・ラウラーナによって建設され、1465年頃に完成した。現在はマルケ国立美術館になっている。」
「レオン・バッティスタ・アルベルティやピサネッロ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、パオロ・ウッチェロの絵画などが閲覧できますよ。」
「はい。」
「パオロ・ウッチェロと言えば、パオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello,1397年 - 1475年12月10日)は初期ルネサンスの画家である。国際ゴシック様式の潮流と遠近法に代表されるルネサンスの科学的アプローチを融合させた絵画を創出した。しかし、あまりにも遠近法に固執したため、ルネサンス後期の画家のみならず、19世紀のロマン主義においてもしばしば批判の対象となった。」
「ピエロ・デッラ・フランチェスカと言えば、ピエロ・デラ・フランチェスカまたはピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca, 1412年 -1492年10月12日)は、イタリア・ルネサンス期の画家である。ボッティチェッリなどより一世代前の、イタリア初期ルネサンスを代表する画家である。」
「ピサネッロと言えば、ピサネロ(Pisanello, 1395年頃 - 1455年頃)は、15世紀に活動したイタリアの画家である。国際ゴシック様式を代表する画家の一人であり、記念メダルの作家としても知られる。日本語では「ピサネッロ」とも表記する。本名をアントニオ・ディ・プッチョ・ピサーノ(Antonio di Puccio Pisano)、またはアントニオ・ディ・プッチョ・ダ・チェレート(Antonio di Puccio da Cereto)という。ヴィットーレ・ピサーノ(Vittore Pisano)とも言うが、これは『画家・彫刻家・建築家列伝』の著者であるジョルジョ・ヴァザーリによる誤伝である。」
「レオン・バッティスタ・アルベルティと言えば、レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti、1404年2月14日 - 1472年4月25日)は、初期ルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家である。専攻分野は法学、古典学、数学、演劇作品、詩作であり、また絵画、彫刻については実作だけでなく理論の構築にも寄与する。音楽と運動競技にも秀で、両足を揃えた状態で人を飛び越したと伝えられる。」
「最後の晩餐でも有名なサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の聖堂を建設したことでも知られるブラマンテは、ウルビーノ歴史地区の城壁の外で生まれましたよ。」
「はい。」
「最後の晩餐と言えば、『最後の晩餐』(さいごのばんさん、伊: L'Ultima Cena)は、レオナルド・ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画である。これはキリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の晩餐の情景を描いている。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。」
「最後の晩餐でも有名なサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会と言えば、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(イタリア語: Chiesa di Santa Maria delle Grazie)は、イタリア・ミラノにあるカトリック教会の聖堂である。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は、敷地内の修道院にある食堂の壁画であり、ユネスコの世界遺産(レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院)に登録されている。」
「最後の晩餐でも有名なサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の聖堂を建設したことでも知られるブラマンテと言えば、ドナト・ブラマンテ(Donato Bramante,1444年頃-1514年3月11日)は、イタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家である。ローマ建築を再構成して記念性を持った古典様式を創出し、以後の古典主義建築に絶大なる影響力を及ぼした。アンドレーア・パッラーディオをして「優れた建築を生んだ最初の建築家」と言わしめ、またセバスティアーノ・セルリオは、彼を「古代の建築を蘇らせた人物」と評した。彼は画家のみならず建築家としても活躍し、1482年に起工したサンタ・マリア・プレッソ・サン・サティーロ聖堂の建築に携わった。1488年、パヴィア大聖堂の設計顧問に任じられ、その後、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会の設計に従事した。」
「そのため、北門前にあるローマ広場では、ラファエロと父ジョヴァンニ・サンティだけでなくブラマンテの銅像も建立されていますよ。」
「そうなんだ。」
「北門前にあるローマ広場と言えば、ローマ広場 (Piazzale Roma) は、イタリア、ヴェネツィアにある広場である。広場は、ヴェネツィアの主要バス停として利用されている。ヴェネツィア・テッセラ空港やトレヴィーゾ空港(英語版)へのバス路線が運行されている。」
「このように、ウルビーノ歴史地区は町全体が中世を思わす町並みが残り、ルネサンス文化に触れたい方には、おススメの世界遺産の観光地になっていますよ。」
「わかりました。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~サン・ジミニャーノ歴史地区~
「塔の町として有名なサン・ジミニャーノ歴史地区は、イタリアの世界遺産ですよ。」
「はい。」
「サン・ジミニャーノ歴史地区と言えば、サン・ジミニャーノ歴史地区はイタリアのコムーネ、サン・ジミニャーノにある中世の街並を残す地区である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。標高324m の丘の上にある塔の街として知られる。サン・ジミニャーノはローマ近くフィレンツェから 50km 程南に位置している。」
「場所がフィレンツェから50kmと、近くにありますよ。」
「はい。」
「「フィレンツェ」という都市と言えば、フィレンツェ(イタリア語:Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)である。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。」
「鉄道やバスを利用すれば、日帰りで訪れることができるでしょう。」
「そうなんだ。」
「13世紀頃に栄えた街とされていますよ。」
「はい。」
「当時も地理的に有利な場所だったようで、流通の主要拠点となっていましたよ。」
「はい。」
「したがって、イタリアの街に住む人も裕福な人たちが多くいたようですね。」
「そうなんですか。」
「街は城壁で囲まれていて、塔が建設されていますよ。」
「はい。」
「防衛において重要視されていたことが伺えますね。」
「はい。」
「この塔が、現代では街の象徴とされていて価値あるものとなっていますよ。」
「そうなんだ。」
「当時は、塔の建設が競って行われていて、高くて美しい塔を建てることが貴族の権力の象徴となりましたよ。」
「そうなんですか。」
「他の都市でも塔の建設がなされていましたが、時代がたつに連れて争いや不要なものとして消えていきましたよ。」
「はい。」
「しかし、サン・ジミニャーノは当時のままの塔が、今でも形を残していますよ。」
「はい。」
「そこが世界遺産にも登録されている要因でもありますね。」
「そうなんだ。」
「塔だけではなく、町並みも13世紀頃の状態を残していることで、街並から城壁など含めてサン・ジミニャーノ歴史地区として世界遺産になっていますよ。」
「はい。」
「イタリアの中世の街並を良く知ることができる場所ですよ。」
「はい。」
「ヨーロッパの古い街並みに興味がある人は、是非寄られてはいかがでしょうか。」
「わかりました。」
「まるで、中世時代に来たような錯覚を覚えられる街並みですよ。」
「はい。」
「これほど街歩きが楽しめるような場所もないでしょう。」
「そうなんだ。」
「おススメするのは、街の中心である広場の周りと市立美術館ですよ。」
「はい。」
「美術館は、この街で高い塔にありますよ。」
「はい。」
「収められている絵画は、フィレンツェ時代のものでたくさん飾られていますよ。」
「そうなんだ。」
「この塔は、登ることもできますよ。」
「はい。」
「50m近くあるので、登るまでには時間も体力も掛かるかと思いますよ。」
「はい。」
「しかし、苦労した分だけ報われる感動もありますよ。」
「そうなんですか。」
「高い塔から眺める街並みは、きっと格別なものとなるでしょう。」
「そうなんだ。」
「街並みだけではなく、美しいイタリアの大地も見渡せますよ。」
「はい。」
「トスカーナ地方のブドウの畑が、眺められるでしょう。」
「はい。」
「サン・ジミニャーノをよく知ることができる場所になっていますよ。」
「そうなんだ。」
「イタリアには、数多くの世界遺産が登録されていますね。」
「そうですね。」
「一つ一つの遺産の登録された理由というのは、よく分からないことが多いでしょう。」
「そうなんだ。」
「しかし、より詳しく知ることでそこに訪れたときの感動が何倍にもなりますよ。」
「はい。」
「サン・ジミニャーノ歴史地区はフィレンツェ近くにあるので、遺産巡りをする時にも寄りたい街ではないでしょうか。」
「わかりました。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~シエーナ歴史地区~
「交易によって蓄えられた富と権力は、かつてのシエーナ共和国にありましたよ。」
「はい。」
「シエーナ共和国と言えば、シエーナ共和国(Repubblica di Siena)は、中世のイタリア半島に存在した国家である。シエーナの都市国家から興り、トスカーナ地方の覇権をフィレンツェ(フィレンツェ共和国およびその後身となるメディチ家の国家)と争った。1115年、北イタリアの大領主であったトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが後継者なく没すると、その領域は細分化されて自治的な勢力が勃興し、都市国家群が生まれることになる。この時代、都市シエーナは、金融の一大センターとなり、また羊毛取引の重要なプレイヤーとして成長を遂げた。」
「トスカーナ地方の文化の中心としての栄光をもたらましたよ。」
「はい。」
「イタリアの全盛を誇った13世紀から14世紀にかけて、今もシエーナ歴史地区が市街に残って文化の中心として悠然と立ち尽くしていますよ。」
「そうなんだ。」
「シエーナ歴史地区と言えば、シエーナ歴史地区は、イタリアの古都シエーナにあるユネスコの世界遺産登録物件名である。登録は1995年。中世の町並みが残され、国際ゴシック、ルネサンス、バロックの芸術作品を見ることができる。」
「コムーネの元で発展し始めたシエーナ歴史地区は、1169年に扇形のイタリアのカンポ広場が創られましたよ。」
「はい。」
「扇形のイタリアのカンポ広場と言えば、カンポ広場は、イタリア中部の都市シエナ(Siena)の中心部にある広場である。丘の頂上にあるシエナ大聖堂を少し下ったところにある、穏やかな傾斜のある扇状の美しい広場で、この広場を中心に、丘の尾根に3つの通りが伸びている。この広場は、毎年夏、パリオ祭の競馬競技が行われる場所としても有名である。広場の周囲には、現在市庁舎として使われている、13世紀から14世紀半ばにかけて建設されたプブリコ宮殿が、その宮殿の左端にマンジャの塔がそびえている。400段の階段の塔の頂上からはシエナの市街を見渡すことができる。」
「コムーネ(自治都市)と言えば、コムーネ(伊: comune)は、イタリア語で「共同体」を指す語であり、現代ではイタリアの自治体の最小単位(基礎自治体)である。また、スイスのイタリア語圏でも基礎自治体をコムーネと呼ぶ。」
「1284年には、扇の広場にあたる場所で政府によって都庁建設が始まりましたよ。」
「はい。」
「引き続きマンシャーが建てられ、トヴァーテーンと呼ばれる白い石灰岩で搭身部を赤レンガで作られたこの搭は、中世における最も大胆な建物のひとつですよ。」
「そうなんですか。」
「トヴァーテーンと呼ばれる白い石灰岩で搭身部を赤レンガで作られた搭と言えば、コムーネの元で発展し始めたシエーナ歴史地区は1169年に扇形のイタリアのカンポ広場が、創られ1284年には扇の広場にあたる場所で政府によって都庁建設始まりました。ひきつづきマンシャーが立てられトヴァーテーンと呼ばれる白い石灰岩で搭身部を赤レンガで作られたこの搭は中世におけるもっとも大胆な建物のひとつです。マーシャ塔の足元にひろがるカンポ広場の礼拝堂は1348年にベスト終身祈願が達成した記念に立てられたと言います。」
「マーシャ塔の足元に広がるカンポ広場の礼拝堂は、1348年にベスト終身祈願が達成した記念に建てられたと言いますよ。」
「はい。」
「外壁には、ルネサンス様式による巧み技がほどこされ、赤レンガのゴジック様式と見事に調和した街のトレンドですよ。」
「はい。」
「ゴジック様式と言えば、ゴジック様式は、12世紀前半にパリを中心とするフランスで始まり、16世紀に至るまで広くヨーロッパ各地に影響を与えた建築・美術の様式である。建築物では大聖堂の尖頭アーチやステンドグラスなど、家具では垂直を強調した対称形や豪華な彫刻装飾が特徴。フランスのノートルダム大聖堂、イギリスのカンタベリー大聖堂、ドイツのケルン大聖堂などが代表例。」
「ルネサンス様式と言えば、ルネサンス様式は、15~17世紀初頭に、イタリアを中心に広くヨーロッパに普及した建築・美術様式である。古代ギリシャ・ローマ様式を復興させ、建築ではシンメトリー(左右対称)とバランス(調和)を重視した。大理石の床、円柱やアーチ、絵画や彫刻で飾った壁、コーニスを施した外壁などが特徴。家具も彫刻や象嵌 (ぞうがん)などで豪華に飾られた。イタリアのフィレンツェ大聖堂、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂、フランスのルーブル宮(現ルーブル美術館)、シャンボール城などが代表例。」
「イタリアの世界遺産として、永遠にこの地に残りますよ。」
「そうなんだ。」
「偉大な美術家たちは、ゴジック様式の街並みが出現したと喜びましたよ。」
「はい。」
「イタリアの聖堂、宮殿、邸宅を復元し、絵画や彫刻で思考を肥やしましたよ。」
「はい。」
「世界遺産のシエーナ歴史地区の都市は、定められた都市計画関連の法令により守られていますよ。」
「そうなんだ。」
「世界一になり損ねた大聖堂が、ここにもひとつありましたよ。」
「はい。」
「シエーナ歴史地区の中で、赤レンガ造りにひときわ人目を引く白と暗い緑の大理石が美しい横縞模様の大聖堂ドゥオモですよ。」
「はい。」
「シエーナ歴史地区の大聖堂ドゥオモと言えば、シエーナ大聖堂(Duomo di Siena)は、イタリアのシエーナにあるキリスト教・カトリックの教会堂である。シエーナの司教座聖堂である。大聖堂、司教館、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ピッコロミーニ図書館、そして未完となった拡張工事部分から成る。世界遺産シエーナ歴史地区の中心を飾り、イタリアで最も美しいゴシック様式のファサードを持つと言われる。」
「この大聖堂は、9世紀に建設されましたよ。」
「そうなんだ。」
「しかし、12世紀中頃、また作り変えられましたよ。」
「はい。」
「基本的な部分は完成しましたが、その後も工事は続けられましたよ。」
「はい。」
「西東北南と大規模な創りとなり、当時の姿を今に伝えていますよ。」
「そうなんだ。」
「ここで有名なのは、毎年2回開催されるパリオの祭りですよ。」
「そうなんですか。」
「パリオの祭りと言えば、パリオ祭りは、1147年から約800年も続いているといわれる祭りである。 毎年7月2日と8月16日に行われ、シエナ中が熱狂の渦に包まれます。祭りのメインは 騾馬を使った競馬レース。」
「イタリアの街の中心にある扇形のカンポ広場で、中世絵巻がくりひろげられますよ。」
「はい。」
「町の人全員が、中世の衣装を着て旗を掲げ行進する姿は壮観で素敵ですよ。」
「はい。」
「パリオクライマックスは、馬レースですよ。」
「そうなんですか。」
「中世の服装に身を包んだ各コントラーダを代表する、騎手によって競い合う馬レースで、広場は感性と興奮で沸きかえりますよ。」
「はい。」
「コントラーダと言えば、コントラーダ (Contrada) は、人口2,986人のイタリア共和国カンパニア州アヴェッリーノ県のコム0ネの一つである。シエナの旧市街は3つの丘に沿って広がり、それぞれの丘は、”Terzo di Citta”、”Terzo di San Martino”、”Terzo di Camollia” と呼ばれ、町を3分割しています。この3区画はさらに17の区域に細分化することができ、この区域がコントラーダと呼ばれます。」
「最後に盛り上がりを見せる祭りは、シエーナ歴史地区の自慢の祭りと言えますよ。」
「はい。」
「相当歓喜さめやらぬ夜となりそうですよ。」
「そうなんだ。」
「祭りは2日間あるそうですよ。」
「はい。」
「スタミナをつけて祭りに備えましょう。」
「わかりました。」
「世界が注目している祭りですよ。」
「はい。」
「怪我、事故などないように、豊かな街を演出してください。」
「わかりました。」
「イタリアシエーナ歴史地区の世界遺産は、赤レンガの素敵な街だけではなく、祭りが主役ですよ。」
「そうなんだ。」
「街に生気と活気が戻ってくるのですから、祭りなくして世界遺産は語れませんよ。」
「はい。」
「シエーナ歴史地区にとって、古い文化をそのまますっぽりと街ごと残していくことは、とても大変な大切な事ですよ。」
「わかりました。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群~
「イタリアにあるチェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群は、イタリアの先住民族であったエトルリア人が残したと言われる、ネクロポリスの跡が点在する古墳群ですよ。」
「そうなんですか。」
「ネクロポリスと言えば、ネクロポリス(necropolis,複数形:necropolises or necropoleis)は、巨大な墓地または埋葬場所である。語源は、ギリシャ語のnekropolis(死者の都)。大都市近郊の現代の共同墓地の他に、古代文明の中心地の近くにあった墓所、しばしば人の住まなくなった都市や町を指す。」
「イタリアの先住民族であったエトルリア人と言えば、エトルリア人(ラテン語: Etrusci)は、イタリア半島中部の先住民族である。インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用していた。エトルリア文化を築いたが、徐々に古代ローマ人と同化し消滅した。初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチは元々、エトルリア文化の特徴であったといわれる。また、初期の王制ローマの王はエトルリア人であったとも言われ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行した。」
「エトルリア墓地遺跡群と言えば、チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群は、イタリアの世界遺産の一つである。チェルヴェーテリ近郊のバンディタッチャ遺跡とタルクイーニア近郊のモンテロッツィ遺跡という、エトルリア人が残した2ヶ所のネクロポリスが対象となっている。」
「タルクイーニアと言えば、タルクイーニア(Tarquinia)は、人口15,910人のイタリア共和国ラツィオ州ヴィテルボ県のコムーネの一つである。」
「チェルヴェーテリと言えば、チェルヴェーテリ(イタリア語:Cerveteri)は、イタリア共和国ラツィオ州ローマ県にある都市で、その周辺地域を含む人口約3万5000人の基礎自治体(コムーネ)である。古代にエトルリア人が築いた都市で、ローマ人からはカエレ(英語版)(Caere)の名で呼ばれた。エトルリア人が遺した墓地遺跡(ネクロポリス)は、世界遺産「チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群」の構成資産として登録されている。」
「ネクロポリスとは、死者の街と言われる巨大な墓地や埋葬場所ですよ。」
「はい。」
「現代で言うならば、霊園のような役割を果たした場所ですよ。」
「そうなんだ。」
「チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア一帯には、6000にものぼる墓地の跡が点在していますよ。」
「多いですね。」
「エトルリアと言えば、エトルリア(ラテン語: Etruria)は、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群である。ギリシャ語ではティレニア( Tyrrhenia)。各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれゆるやかな連合を形成し、祭司・軍事で協力することもあった。」
「1つ1つが大きく、しかも死者を弔うための立派な墓室や装飾、絵画などが綺麗な状態で保存されていますよ。」
「はい。」
「これほど多くの墓地が、これほど綺麗な状態で保存されていることは珍しいですよ。」
「そうなんだ。」
「2004年には、チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群として、世界遺産に登録されていますよ。」
「はい。」
「世界遺産のチェルヴェーテリは、イタリアのローマから北西へ44キロ、車で1時間ほどの場所にありますよ。」
「そうなんだ。」
「首都「ローマ」と言えば、ローマ(伊: Roma、羅: Roma)は、イタリアの首都である。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。」
「タルクイーニアは、ローマから北西へ96キロ、車では2時間半ほどの場所にありますよ。」
「はい。」
「古代エトルリアは、現在のイタリアのトスカーナ州、ウンブリア州西部とラツィオ州北部を含む広いエリアだったとされていますよ。」
「はい。」
「ラツィオ州と言えば、ラツィオ州(Lazio)は、イタリア共和国中部にある州である。州都はイタリアの首都であるローマ。州人口は約570万人で、ミラノを擁するロンバルディア州、ナポリを擁するカンパニア州に次いで第3位である。」
「ウンブリア州と言えば、ウンブリア州(イタリア語: Umbria)は、イタリア共和国中部に位置する州である。州都はペルージャ。イタリアの州で海にも国境にも接していない、唯一の「内陸」の州である。」
「エトルリアと言えば、エトルリア(ラテン語: Etruria)は、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群である。ギリシャ語ではティレニア( Tyrrhenia)。各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれゆるやかな連合を形成し、祭司・軍事で協力することもあった。」
「イタリア中部のトスカーナ州(トスカーナ地方)と言えば、トスカーナ州(伊: Toscana)は、イタリア共和国中部に位置する州である。州都はフィレンツェ。イタリア・ルネッサンスの中心地となったフィレンツェをはじめ、ピサ、シエーナなど多くの古都を擁している。文化遺産や自然景観に恵まれ、多くの観光客が訪れる。」
「紀元前9世紀から紀元前1世紀に渡って交易で国が栄えると共に、高度な文明や技術を持っていたと言われていますよ。」
「そうなんですか。」
「ネクロポリスを造ることができたのも、その一環で埋葬文化や葬祭芸術が発展し、この一帯に複数の大規模かつ記念碑的な墳墓を残したとされますよ。」
「はい。」
「日本でいう前方後円墳的な構造の大型の墓は、石を積み上げて造られていますよ。」
「そうなんだ。」
「中に入ると、死者の棺が置かれる広い部屋が並んでいますよ。」
「はい。」
「これらの墓室は1人ではなく、カップル単位で1つとされているものも多いですよ。」
「はい。」
「永久の愛を繋ぐよう夫婦そろって同じ場所に葬られたことを知ることができますよ。」
「そうなんだ。」
「現在でも、夫婦や家族は同じ墓に入るのが習わしだと思いますよ。」
「はい。」
「この時代からそのような風習があったのだと思うと、興味がそそられますね。」
「はい。」
「壁には装飾画が施され、ハチドリやイルカ、エトルリアの貴族たちの生活が描かれていますよ。」
「そうなんだ。」
「別の場所には、地下古墳もありますよ。」
「そうなんですか。」
「地下へと繋がる階段を降りて行くと、やはり、個室のような部屋が広がり、色鮮やかな壁画で飾られていますよ。」
「はい。」
「神聖な森を描いたものや村の祭りで人々が躍る様子や、魚釣りをしている場面の他、埋葬者の肖像画らしきものも見られますよ。」
「はい。」
「死者の魂を弔うと共に、死者が寂しくないよう安らかに眠るようにと祈りを込められて描かれたであろう絵の数々に、思わず心が奪われますよ。」
「そうなんだ。」
「6000余りの墓のうち、200には内部の絵が残されていると言いますよ。」
「はい。」
「日本にも、数々の古墳跡はありますね。」
「そうですね。」
「これだけの跡がほぼ完全な形で残されている古墳群は、なかなか巡り合えませんよ。」
「そうなんだ。」
「世界遺産に指定された意義がよく分かりますね。」
「はい。」
「実際に内部を見学できるのも魅力ですね。」
「はい。」
「ローマからもさほど遠くありませんよ。」
「そうなんだ。」
「イタリアに行ったら、是非世界遺産チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群にも足を運んでください。」
「わかりました。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~ピエンツァ市街の歴史地区~
「イタリアは、世界で一番世界遺産が多い国ですね。」
「そうですね。」
「それは、長い歴史で様々なことがあったからでしょう。」
「はい。」
「したがって、イタリアを旅行する価値は大いにありますよ。」
「はい。」
「そこで、ピエンツァ市街の歴史地区についてご紹介します。」
「お願いします。」
「「ピエンツァ」という都市と言えば、ピエンツァ (Pienza) は、人口2,231人のイタリア共和国トスカーナ州シエーナ県のコムーネの一つである。市街地の歴史地区 (centro storico) は1996年に世界遺産に登録されている。シエナの貴族ピッコロミニ(Piccolomini)家が神聖ローマ帝国皇帝のフリードリヒ2世からヴァル・ドルチャの地を与えられ、ピエンツァもその一部に含まれていた。当初、ピエンツァはコルシャーノという小さな村落に過ぎなかった。だが、このコムーネ出身のピウス2世が教皇となると、ピウス2世はこの地を自らにちなんでピッコロミミと名づけ、理想のルネッサンス期の街づくりに挑んだ。」
「ピエンツァ市街とは、トスカーナ州のコルシャーノという小さな村落でしたよ。」
「はい。」
「トスカーナ州のコルシャーノという小さな村落と言えば、ピエンツァ市街は、トスカーナ州のコルシャーノという小さな村落でした。当時のローマ法皇のピウス2世がこの地を自らにちなみピッコロミミと名をつけて、建築に力を入れました。「美しい都市は美しい田園に囲まれるのが一番いい」という理想の元作られました。苦心して作った建築物等はルネサンス期の建築様式が都市計画に初めて生かされた街として途中で教皇が無くなって、それがユニークできれいな形として残されています。」
「イタリア中部のトスカーナ州(トスカーナ地方)と言えば、トスカーナ州(伊: Toscana)は、イタリア共和国中部に位置する州である。州都はフィレンツェ。イタリア・ルネッサンスの中心地となったフィレンツェをはじめ、ピサ、シエーナなど多くの古都を擁している。文化遺産や自然景観に恵まれ、多くの観光客が訪れる。」
「そんな村落が世界遺産に認定された理由は、歴史的価値があるからですよ。」
「そうなんですか。」
「当時のローマ法皇のピウス2世が、この地を自らにちなみピッコロミミと名をつけて建築に力を入れましたよ。」
「はい。」
「ピッコロミミと言えば、シエナの貴族ピッコロミニ(Piccolomini)家が神聖ローマ帝国皇帝のフリードリヒ2世からヴァル・ドルチャの地を与えられ、ピエンツァもその一部に含まれていた。当初、ピエンツァはコルシャーノという小さな村落に過ぎなかった。だが、このコムーネ出身のピウス2世が教皇となると、ピウス2世はこの地を自らにちなんでピッコロミミと名づけ、理想のルネッサンス期の街づくりに挑んだ。」
「ローマ法皇のピウス2世と言えば、ピウス2世(Pius II、1405年10月18日- 1464年8月14日)は、ルネサンス期のローマ教皇(在位:1458年 - 1464年)である。本名はアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ(Aeneas Silvius Piccolomini, イタリア語:Enea Silvio Piccolomini)。シエナ出身で、シエナ大学で学ぶ。元々人文主義者の代表的な人物で、詩人、歴史家として高名であり、神聖ローマ帝国に仕え、皇帝の側近、外交家としても知られていた。教皇エウゲニウス4世時代のバーゼル公会議に神聖ローマ帝国の宰相として参加し、教皇派と公会議首位派の対立を収束させるべく尽力した。その後聖職者となり、カリストゥス3世の死後、教皇に選ばれ、ピウス2世を名乗る。」
「その理想としては、「美しい都市は美しい田園に囲まれるのが一番いい」という理想の元に作られましたよ。」
「はい。」
「途中で教皇が亡くなりましたよ。」
「そうなんだ。」
「苦心して作った建築物等は、ルネサンス期の建築様式が都市計画に初めて生かされた街として、ユニークできれいな形として残されていますよ。」
「はい。」
「それでは、この街の魅力は何でしょうか?」
「・・・・。」
「そもそも、人口2000人程度の小さな町ですよ。」
「小さいですね。」
「こじんまりとしていて、綺麗さを維持している点が魅力だと思いますよ。」
「はい。」
「つまり、大都市なら景観が壊れることがありますね。」
「はい。」
「しかし、小さな街ですから、人の移動もそれほど少なく、町の景観が壊れにくいのですね。」
「そうですね。」
「どの位小さな街かと言いますと、城壁に囲まれていて東西400~500メートルですよ。」
「そうなんだ。」
「その小さな箱庭の中に魅力的な建物が沢山あり、この丘の街から世界有数の絶景のオルチャとアッソの渓谷を見下ろすことが出来ますよ。」
「はい。」
「アッソ渓谷と言えば、シエナから約40km南に、城壁に囲まれたモンタルチーノがあります。オルチャ、オンブローネ、アッソ渓谷に囲まれた海抜564メートルの町は、中世の時代、 見晴らしの良さから重要な軍事拠点でした。」
「アッソと言えば、アッソ(Asso)は、人口3,425人のイタリア共和国ロンバルディア州コモ県のコムーネの一つである。」
「我々一般の旅行者は、予算が限られていますから、それほど長い時間観光できるわけではありませんよ。」
「はい。」
「したがって、このようなイタリアやルネサンス期のことがよくわかる建物を手軽に見られることは、大変有意義なことが魅力なのでしょう。」
「そうなんだ。」
「「トスカーナの宝石」と言われるくらいですよ。」
「そうなんですか。」
「チーズが有名で、毎年8月にチーズ祭りがありますよ。」
「はい。」
「チーズ祭りと言えば、ブラのチーズ祭りに行くと、イタリア中のチーズが買えます。2年ごとに9月末の金曜から月曜の4日間ブラで開催されます。」
「その時期を狙って行くのも、いいのではないでしょうか。」
「わかりました。」
「おいしいチーズ料理に舌鼓を打つのも、うれしいものですね。」
「はい。」
「以上が、世界遺産のピエンツァ市街の歴史地区の魅力ですよ。」
「わかりました。」
「実際に、欧米からもイタリアへ多数の観光客の方がいらっしゃいますよ。」
「そうなんだ。」
「ピエンツァ市街の歴史地区の周りも自然豊かなので、バカンスにも最適ですよ。」
「はい。」
「気になる方は、一度調べてはいかがでしょう。」
「わかりました。」
「きっと、あなたも行きたくなりますよ。」
「はい。」
「当時の想いを知る事が出来るのは、うれしいものですね。」
「そうですね。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~ピサのドゥオモ広場~
「イタリアの観光名所と言えば、ピサのドゥオモ広場ですね。」
「はい。」
「ピサのドゥオモ広場と言えば、ピサのドゥオモ広場(Piazza del Duomo)は、イタリアにある世界遺産の物件名である。世界遺産に登録されたのは、1987年。ピサのはずれにあるドゥオモ広場に建つ、洗礼堂、大聖堂、鐘楼、墓所回廊の4つが印象的である。ピサのこのころの繁栄を象徴した建物群である。特に鐘楼はピサの斜塔として有名。ピサのドゥオモ広場は、ピアッツァ・デイ・ミラーコリ (Piazza dei Miracoli) やカンポ・デイ・ミラーコリ (Campo dei Miracoli) とも呼ばれ、奇跡の広場という意味である。」
「「ピサ」という都市と言えば、ピサ (イタリア語: Pisa ) は、イタリア共和国トスカーナ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約8万6000人の基礎自治体(コムーネ)である。ピサ県の県都である。」
「ピサの斜塔があるピサのドゥオモ広場は、1987年に世界遺産に登録されましたよ。」
「そうなんだ。」
「「ピサの斜塔」と言えば、ピサの斜塔 (伊語:Torre di Pisa) は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼であり、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポットである。高さは地上55m、階段は297段あり、重量は14,453t、地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられている。一時傾斜の増大と倒壊の危惧があったがその後の処置により、当分問題ないと判断されている。5.5度傾いていたが、1990年から2001年の間に行われた工事によって、現在は約3.99度に是正されている。 かつてのガリレオの実験に対して行われた異端審問の弾圧に関連してローマ法王が侘びの公式声明を塔の頂上にて行った事も有名。」
「その美しさと歴史や文化性が認められ、次世代に向けて世界的に受け継がれていくべき財産として評価を受けていますよ。」
「はい。」
「ピサの斜塔が世界遺産ではないの?と思われる方も多いようですね。」
「はい。」
「しかし、ピサの斜塔を含むドゥオモ広場が、世界遺産ですよ。」
「そうなんだ。」
「傾いた塔への驚きから、どうしても目がいきがちですね。」
「はい。」
「実際にピサのドゥオモ広場に訪れると、ピサの斜塔は脇の方に建っていますよ。」
「はい。」
「真ん中にそびえる大聖堂ドゥオモに、圧倒される人も多いはずですよ。」
「そうなんだ。」
「シエーナ歴史地区の大聖堂ドゥオモと言えば、シエーナ大聖堂(Duomo di Siena)は、イタリアのシエーナにあるキリスト教・カトリックの教会堂である。シエーナの司教座聖堂である。大聖堂、司教館、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ピッコロミーニ図書館、そして未完となった拡張工事部分から成る。世界遺産シエーナ歴史地区の中心を飾り、イタリアで最も美しいゴシック様式のファサードを持つと言われる。」
「イタリアでピサのドゥオモ広場を訪れたら、広場の西側にあるサンタ・マリア門から入場するのがおススメですよ。」
「はい。」
「ピサのドゥオモ広場の西側にあるサンタ・マリア門と言えば、イタリアでピサのドゥオモ広場を訪れたら、広場の西側にあるサンタ・マリア門から入場するのがおススメです。ピサの斜塔へ車で行くならサンタ・マリア門のすぐ西側にある駐車場が便利。」
「門を通って、最初に見る光景の美しさは格別ですよ。」
「はい。」
「円筒形の洗礼堂、中央のドゥオモ、それに続いて並ぶピサの斜塔が一望できますよ。」
「はい。」
「このピサのドゥオモ広場は、その美しさから「奇跡の広場」と呼ばれて、古くからイタリアの人々に愛されてきましたよ。」
「そうなんだ。」
「現在では、世界中から観光客が訪れ、毎日賑わいを見せていますよ。」
「はい。」
「ピサのドゥオモの建設が始まったのは、10世紀末から11世紀頃のことと言われていますよ。」
「はい。」
「当時、勢力を誇った海洋都市国家のピサがその権力を示すために築造しましたよ。」
「そうなんだ。」
「その当時の人々の生活は、教会を中心に営まれていましたよ。」
「はい。」
「ドゥオモを中心に街が造られていきましたよ。」
「はい。」
「海洋都市国家として名をはせたピサは、地中海交易で莫大な利益を得ていましたよ。」
「そうなんだ。」
「その利益を財源としてピサのドゥオモ広場を造り上げていく一方で、交易を通じて流入してきた様々な異文化や技術が融合し、ドゥオモや斜塔のデザインや建築、内装に活かされていきましたよ。」
「はい。」
「イスラムやビザンチン、ロマネスク様式などの異なる文化が融合した珍しい建築デザインは、ピサ様式と呼ばれていますよ。」
「そうなんだ。」
「ピサ様式と言えば、ピサ様式は、内外壁を色違いの大理石による縞模様で仕上げ、外周初層を東方伝来の壁アーチ、ファサードと西側後正面をロンバルド・ロマネスク様式由来の列柱装飾歩廊とする。様式の混在は柔らかい色調のカラーラ大理石で統一され、洗礼堂、鐘楼にも共通する壁アーチ(初層)と列柱帯(上層)による装飾構成はピサ様式として近隣のルッカ、ピストイア、またリグリア海を越えたサルデーニャ、コルシカ両島に伝播した。ピサ生れのガリレイは同大聖堂内の揺れるランプを見て振子の等時性を直観したと伝えられる。」
「ロマネスク様式と言えば、ロマネスク様式は、10世紀末から12世紀にかけてヨーロッパ各地に見られた建築・美術様式である。建築物は石造の厚い壁や半円アーチを持つのが特徴。フランスのサン・トロフィーム教会、イタリアのピサ大聖堂、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂などが代表例。」
「ビザンチン様式と言えば、ビザンチン様式は、4世紀頃から始まった東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の建築・装飾様式である。ギリシャやトルコなど、地中海東側に見られる。建築では大ドームやモザイク壁画が特徴で、イスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂やベネチアのサン・マルコ大聖堂が代表的。家具では象嵌 (ぞうがん)や彫刻などで装飾されたものが多く見られる。」
「イスラム様式と言えば、イスラム様式は、イスラム教徒に用いられた装飾のことである。植物や動物を主題にして、唐草模様や幾何学的な模様に連続して描かれた、抽象的な装飾模様の「アラベスク」や、アーチやドームの下部に、鍾乳石が垂れ下がった形の装飾の「スタラクタイト」などがある。」
「外からの精緻さはもちろん、中から見ても美しいですよ。」
「はい。」
「是非、内部も見学しましょう。」
「わかりました。」
「洗礼堂の中には、ステンドグラスや彫刻の数々も見られ、とても興味をそそられますよ。」
「はい。」
「ピサの斜塔は、ロマネスク様式で1173年に建築が始まったようですよ。」
「はい。」
「元々、斜塔としてデザインされたわけではなく、地盤が脆弱だったため傾いてしまったというのが実際のようですよ。」
「そうなんだ。」
「いったんは工事が中止されたものの、なぜかそれでも工事が続けられ、1372年に54メートルの鐘楼が完成しましたよ。」
「はい。」
「その時には、既に斜塔となり傾いていましたよ。」
「そうなんだ。」
「時と共に少しずつ傾き、1990年になって倒壊の危険が叫ばれましたよ。」
「はい。」
「世界的な議論が起きた結果、2000年に、重機とワイヤーを使って反対方向に引っ張るという補正がなされ、同時に地盤強化も行いましたよ。」
「はい。」
「4.5度程度に傾きを抑え、とりあえず安全な位置に納まっていますよ。」
「そうなんだ。」
「そんなピサの斜塔は人が登れるの?と思われる方も多いでしょう。」
「はい。」
「予約は必要ですが、登ることが可能ですよ。」
「はい。」
「せっかくイタリアのピサのドゥオモ広場までやってきたのですから、登らないでは帰れませんね。」
「そうですね。」
「是非、イタリアのピサの斜塔に登って、これまでに見たことのない不思議な眺めを味わってください。」
「わかりました。」
「斜塔から見る世界遺産のピサのドゥオモ広場やピサの街並みは、とても素晴らしいですよ。」
「そうなんだ。」
イタリアの世界遺産と地方都市の旅~フィレンツェ歴史地区~
「イタリアの世界遺産のフィレンツェ歴史地区は、まさに堂々とした風格のある歴史建造物をあちこち備えていて、見る人を圧倒させますよ。」
「そうなんですか。」
「フィレンツェ歴史地区と言えば、フィレンツェ歴史地区(イタリア語: Centro Storico di Firenze / 英語: Historic Centre of Florence)は、イタリアの都市フィレンツェの中心部である。ユネスコの世界遺産 (文化遺産) に登録されている。歴史的な町並みが広範囲かつ集中的に保存されており、ルネッサンスの芸術、文化を眼前にみることができる。フィレンツェは屋根のない博物館とも表されるほど、稀有な建築物や彫刻などの芸術作品が残る。もともとフィレンツェはエトルリア人によって創設されローマ植民都市がおかれた。」
「世界遺産のフィレンツェ歴史地区にあるウフィツィ美術館の建物の辺りに、ずらりとイタリアの世界的な多くの芸術家の彫刻がありますよ。」
「はい。」
「ウフィツィ美術館と言えば、ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、イタリアのフィレンツェにあるイタリア・ルネサンス絵画で有名な美術館である。1591年より部分的に公開されており、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つである。またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のものである。1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。また、トスカーナ方言であるUffiziは英単語officeの語源になった。」
「レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど、日本でもお馴染みの世界的な芸術家は、これからもイタリアの誇る第一線の天才として君臨して行く事でしょう。」
「そうですね。」
「ミケランジェロと言えば、ミケランジェロ・ブオナローティ、(伊:Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人である。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ばれることもある。」
「レオナルド・ダ・ヴィンチと言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ (伊:Leonardo da Vinci 、1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦))はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家である。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci ) で、絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に顕著な業績を残し、「万能人 (uomo universale )」 と異名などで親しまれている。」
「夏の暑い盛りには、何処も夏休み中の観光客でごった返し、とても賑わいますよ。」
「はい。」
「ダビデの像などの館内に入る人数を制限をしているため、どうしても混んでいる時期は外で待つこともしばしばありますよ。」
「はい。」
「ダビデの像と言えば、ダビデ像(伊: David di Michelangelo)は、ミケランジェロが1501年から制作を開始し、1504年9月8日に公開した彫刻作品である。フィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されている。ピエタと並ぶミケランジェロの代表作であるばかりでなく、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つである。人間の力強さや美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史における最も有名な作品のひとつと言える。」
「その代わり、やっと中に入るとその見事な堂々としたダビデの像に見惚れるほど素晴らしいですよ。」
「そうなんだ。」
「さすが、世界遺産になっている地区と言った印象ですね。」
「はい。」
「あのような建造物など芸術作品を眺める旅は、一人でのんびり旅行も良いと思いますよ。」
「そうなんですか。」
「そんな世界遺産のフィレンツェ歴史地区には、レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれたと言うヴィンチ村があり、ダ・ヴィンチの博物館もありますよ。」
「はい。」
「ダ・ヴィンチの博物館と言えば、近代科学の成立はルネッサンス(15~16世紀)と密接な関係があるが、その先頭を 切ったのがイタリアである。このイタリアを代表する国立科学技術博物館は、レオナルド・ ダ・ヴィンチ(1452~1519)生誕500周年を記念して、1953年に創設された。」
「レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれたと言うヴィンチ村と言えば、ヴィンチ(イタリア語: Vinci)は、イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県にある、人口約1万4000人の基礎自治体(コムーネ)である。ルネサンス期の芸術家・科学者であるレオナルド・ダ・ヴィンチの出身地として知られる。フィレンツェ県の西南部に位置する。ヴィンチの市街は、エンポリから北へ約7km、ピストイアから南へ約17km、フィレンツェから西へ約28km、ピサから東北東へ約43kmの距離にある。」
「フィレンツェ歴史地区に位置するトスカーナは独特な丘陵地域ですよ。」
「はい。」
「その地には、とてもゆったりとした時間が流れていますよ。」
「そうなんだ。」
「博物館にある建物の一番高い所から、その景色を満喫することができますよ。」
「はい。」
「ダ・ヴィンチは、フィレンツェのあの抑揚ある景色をとても好きだったようですよ。」
「はい。」
「「フィレンツェ」という都市と言えば、フィレンツェ(イタリア語:Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)である。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。」
「ミラノに住む事になった頃、フィレンツェを懐かしく感じるほど、ミラノの地形がまるで違っていますよ。」
「そうなんですか。」
「ミラノと言えば、ミラノ(伊: Milano)は、イタリア及び南ヨーロッパ最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(英:Milan)、フランス語ではミラン(仏:Milan)、ドイツ語ではマイラント(独:Mailand)、スペイン語ではミラン(西:Milan)、ラテン語ではメディオラーヌム(羅: Mediolanum)と言う。ミラノはイタリア全土では首都ローマに次ぎ第2位、北部イタリアにおいては最大の都市で商業、工業、金融の中心。観光地としても名高い。」
「ダ・ヴィンチのドキュメンタリーを見ると、フィレンツェ歴史地区を懐かしがるようなシーンがありますよ。」
「はい。」
「人間は幾つになっても、生まれ育った地形というのは脳裏から離れないものですね。」
「そうですね。」
「そんなフィレンツェには、様々な芸術の昔からの資料なども多いですよ。」
「はい。」
「数十年前の歴史的な豪雨で、その損害は計り知れないようですよ。」
「はい。」
「あの頃、少しでもフィレンツェの歴史的資料などを守ろうと、世界中からボランティアが駆けつけたというエピソードもありますよ。」
「そうなんだ。」
「実際、あるイタリア映画を見ると、北欧に旅行をしていたイタリア人はそのニュースを知り、予定を全部キャンセルをしてフィレンツェへ帰って行くシーンがありますよ。」
「はい。」
「如何にイタリア人がフィレンツェを大事にしているか分かるシーンですね。」
「はい。」
「あの街を流れるアルノ川の水嵩が増して、どんどん溢れて街中に水が流れ込んで行ったのかも知れないと想像するとおそろしいですね。」
「そうですね。」
「アルノ川と言えば、アルノ川(Arno)は、イタリア中部を流れティレニア海に注ぐ、長さ241kmの川である。トスコ=エミリアーノ・アペンニーノにあるファルテローナ山に源を発し南へ流れる。アレッツォ付近で北西に転じ、フィレンツェで西に変える。ポンテデーラの谷を流れ、ピサの西側でティレニア海に注ぐ。」
「広範囲にしかも集中的に昔のままの姿を見ることができるこの歴史的な世界遺産フィレンツェ歴史地区は、何度でも足を運んでみたくなる場所ですよ。」
「わかりました。」
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