ポルトガルの世界遺産
「ポルトガルは、その昔大航海時代に、海外貿易の先駆けとなったヨーロッパ最西端の国ですね。」
「そうですね。」
「大航海時代と言えば、大航海時代は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。」
「周辺一帯がすべて石で出来ている街・モンサント(エストレラ山脈の南東部)、イタリアンには欠かせないオリーブオイル、そして宣教師フランシスコザビエルなどの出身地として知られているスポットですね。」
「はい。」
「宣教師フランシスコザビエルと言えば、フランシスコ・デ・ザビエル(1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)は、スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師である。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。」
「エストレラ山脈と言えば、エストレーラ山脈とは、ポルトガルで最も標高の高い山脈であり、システマ・セントラルでも最も標高が高いもののひとつである。海抜で見てポルトガル本土最高地点(1993m)を含んでいる。しかしながらポルトガル最高地点はアソーレス諸島のピコ山である。この地点は明確な山頂ではないが、高原全体では最高地点であり、トーレ(「塔」の意)として知られている。トーレは山頂にしては通常にはない特徴を持っており、舗装された道路でアクセスできる。地勢上の最高地点は1204mであり、元の頂はスペインのピコ・アルマンソールである。」
「モンサント(エストレラ山脈の南東部)と言えば、ポルトガルのエストレラ山脈の南東部に位置するモンサントは、巨石がごろごろしている 岩山の中に、その石を上手く利用して、組み込まれるように建てられた中世から存在 する要塞の村である。」
「地中海貿易の覇権争いの際に、常に中心にいたポルトガルは、日本よりも小さな国土ながらも、ヨーロッパにおいて圧倒的な存在感を発揮している国として認知されていますね。」
「はい。」
「宣教師ザビエルの国というだけあって、世界遺産として認定されているものにも宗教系のものが多いですよ。」
「そうなんですか。」
「「トマールのキリスト教修道院」や「アルコバッサ修道院」が有名ですね。」
「はい。」
「アルコバッサ修道院(サンタ・マリア・デ・アルコバッサ)と言えば、アルコバーサ修道院(Mosteiro de Alcobaca)は、ポルトガル中部レイリーア県アルコバーサにあるシトー会修道院である。正式名称はMosteiro de Santa Maria de Alcobaca(サンタ・マリーア・ディ・アルコバーサ修道院)、またReal Abadia de Santa Maria de Alcobaca(王立サンタ・マリーア・デ・アルコバーサ大修道院)とも呼ばれる。ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会をはじめ中世の建築群がそのまま残り、1989年、ユネスコの世界遺産に登録された。」
「トマールのキリスト教修道院と言えば、トマールのキリスト教修道院は、ポルトガルの都市・トマールにある修道院であり、12世紀にテンプル騎士団によって建設された。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなった。キリスト騎士団は、大航海時代 のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いたことで有名である。」
「個性豊かなヨーロッパの国々の中にあると、影の役回りになってしまいがちなポルトガルですね。」
「そうなんだ。」
「しかし、実際は、ポルトガルがなければ大航海時代も開けませんでしたよ。」
「はい。」
「大航海時代と言えば、大航海時代は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。」
「ポルトガルからあらゆる文化が始まったと言っても過言ではありませんよ。」
「そうなんですか。」
「それほど重要な意味を握っている国とされていますよ。」
「はい。」
「ポルトガルには、およそ13カ所もの世界遺産が点在していますよ。」
「はい。」
「「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」、「ポルト歴史地区」、三万五千人ほどの人口を抱える「アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモの中心地区」などの文化遺産が12カ所ありますよ。」
「いろいろありますね。」
「ポルト歴史地区と言えば、ポルト歴史地区は、1996年に登録された世界遺産(文化遺産)で、ポルトガル北西部に位置する、首都リスボンに次ぐ同国第2の都市である。ドーロ川北岸の丘陵に建設されてから、1000年以上の歴史を持つ。ロマネスク様式の聖歌隊席を持つ大聖堂やサン・フランシスコ聖堂、クレリゴス聖堂、典型的なマヌエル様式のサンタ・クララ聖堂などが点在する。18世紀にポルト港からイギリスに向けて盛んに特産ワインが輸出され、「ポートワイン(ポルト・ワイン)」と呼ばれて有名になった。」
「アゾレス諸島と言えば、アソーレス諸島、またはアゾレス諸島は、大西洋の中央部マカロネシアに位置するポルトガル領の群島。アソーレス諸島全体は自治権を持ち、一つの行政区でもある。ポルトガル沖約1000kmの大西洋上に浮かぶ。1427年に発見された。リスボンから約1500km、北アメリカの東端から3900kmの位置にある。火山が起源で、九つの島からなる。ピコ島の火山ピコ山は標高2351mでアソーレスのみならずポルトガルの最高地点である。」
「アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモと言えば、アングラ・ド・エロイズモは、ポルトガル・アゾレス諸島にある都市である。アングラ・ド・エロイズモ自体は、アゾレス諸島で第3の島であるテルセイラ島の南西部を占める。テルセイラ島の東半分を占めるプライア・ダ・ヴィトリアと隣接する。」
「ベレンの塔と言えば、ベレンの塔はリスボンのベレン地区にある塔で、「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産として世界遺産リストに登録されている。16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。建築様式はマヌエル様式である。」
「首都リスボンと言えば、リスボンは、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積は84.8 km2 (33 sq mi)を占めているが、リスボンの都市的地域は市域を越えて広がっている。人口は300万人を超え、958 km2(370 sq mi)を占めており欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人の人々が、リスボン都市圏(英語版)に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパでは大都市として最も西にある都市で、同様に最も西側にある首都で唯一、大西洋側に沿っている。リスボンはイベリア半島の西側にあり、テージョ川の河畔に位置している。」
「リスボンのジェロニモス修道院と言えば、ジェロニモス修道院とは、ポルトガルの首都であるリスボンのベレン地区にある修道院であり、世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産のひとつである。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。付近には同じく世界遺産であるベレンの塔や発見のモニュメントが存在する。」
「広葉樹や針葉樹が広く分布している「マデイラ島の照葉樹林」などの自然遺産が、1カ所保存されていますよ。」
「はい。」
「広葉樹と言えば、広葉樹(闊葉樹〈かつようじゅ〉ともいう)とは葉が広く平たいサクラやケヤキ、ブナなどの被子植物に属す木本のことである。広葉樹で構成される森林は広葉樹林と称される。」
「針葉樹と言えば、針葉樹は、葉が針のように細長いマツやスギなどの裸子植物球果植物門の樹木のことである。広葉樹の対義語。常緑性の常緑針葉樹と落葉樹の落葉針葉樹がある。外来種を中心とした園芸用の針葉樹はコニファーと呼ばれる。」
「照葉樹林と言えば、照葉樹林とは、森林の群系の一種で、温帯に成立する常緑広葉樹林の一つの型を指す。構成樹種に葉の表面の照りが強い樹木が多いのでその名がある。」
「マデイラ島と言えば、マデイラ諸島は、北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島である。マデイラ島は同諸島最大の島で741平方km(日本の奄美大島とほぼ同じ大きさ)、東西に長い形をしている。最高峰はルイヴォ山(1,862m)である。島はその名前の由来となった木々(マデイラはポルトガル語で「木」の意味)に覆われ、ラウリシルヴァに代表される豊かな自然が残されている。」
「この世界遺産の数は、ヨーロッパの国々の中では少ない方ですね。」
「はい。」
「しかし、一つ一つが非常に濃い文化を抱えた世界遺産である為、決して見劣りしませんよ。」
「そうなんだ。」
「中でも、「トマールのキリスト教修道院」は、他のどの国の世界遺産よりも評判が良く、936カ所もある世界遺産の中でも、最も美しい雰囲気を保っているのではないかとも言われていますよ。」
「はい。」
「気になる方は、是非チェックしてください。」
「わかりました。」
「この場所は、1983年にユネスコの世界遺産に指定されたスポットですよ。」
「はい。」
「内部にある円堂の天井一面に、美しい宗教美術の世界が展開されていますよ。」
「はい。」
「入った瞬間に、全身の毛が総毛立つほどの神秘的スポットですよ。」
「そうなんですか。」
「日本で言うところの「スピリチュアルスポット」と言える場所なのかも知れませんね。」
「はい。」
「この場所は、テンプル騎士団(レコンキスタで活躍した騎士)によって建設が着手されましたよ。」
「はい。」
「レコンキスタと言えば、レコンキスタ(スペイン語:Reconquista)は、718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落で終わる。レコンキスタはスペイン語で「再征服」(re=再び、conquista=征服すること)を意味する。ポルトガル語では同綴でルコンキシュタという。日本語においては意訳で国土回復運動や、直訳で再征服運動とされる。」
「テンプル騎士団(レコンキスタで活躍した騎士)と言えば、テンプル騎士団は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会である。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。」
「長い歴史の中で、修道院として使われ続けてきたスポットですよ。」
「そうなんだ。」
「ポルトガルの世界遺産の中で、最も見る価値が高いと言われている世界遺産ですよ。」
「そうなんですか。」
「「時間がなくて一カ所しか見ることができない」という方は、是非トマールのキリスト教修道院へ足を運んでください。」
「わかりました。」
「なお、トマールのキリスト教修道院は、駅から十五分~二十分ほどで到着する世界遺産ですので、移動するのが非常にスムーズですよ。」
「それはいいですね。」
「駅周辺を観光しつつ、訪問することができますよ。」
「はい。」
「観光の際は、駅周辺にあるものをチェックしながら歩いてみましょう。」
「わかりました。」
「ポルトガルには、あらゆる所に「パステラリア」と呼ばれる出店がありますよ。」
「はい。」
「「パステラリア」と呼ばれる出店と言えば、ポルトガルにはあらゆるところに「パステラリア」と呼ばれる出店があります。この出店はいわゆる軽食屋さんのような場所であり、お菓子屋を大量に扱っているのでお子さんなどをお連れの観光客からかなり人気のある風習です。」
「この出店は、いわゆる軽食屋さんのような場所ですよ。」
「そうなんだ。」
「お菓子を大量に扱っているので、お子さんなどをお連れの観光客からかなり人気がありますよ。」
「はい。」
「ポルトガルには、美味しいお菓子がたくさんあるので、観光しながらパステラリアを探してください。」
「わかりました。」
「もちろん、主要な都市へ行けば、お菓子だけではなく美味しい料理がたくさん味わえるレストランがあるので、そちらも要チェックですよ。」
「はい。」
「ポルトガルの場合は、オリーブオイルをたっぷり使った魚料理が名物ですよ。」
「はい。」
「グルメな方は、是非舌鼓を打ってみましょう。」
「わかりました。」
「レストランも世界遺産も、素晴らしい所がたくさんありますよ。」
「はい。」
「とにかく、日本と違って陽気で楽しい国ですよ。」
「はい。」
「ポルトガルの文化に関心のある方は、是非観光してください。」
「わかりました。」
ポルトガルの世界遺産~マデイラ島の照葉樹林~
「皆さんは、「マデイラ島の照葉樹林」と呼ばれる世界遺産をご存じでしょうか?」
「いいえ、知りません。」
「照葉樹林と言えば、照葉樹林とは、森林の群系の一種で、温帯に成立する常緑広葉樹林の一つの型を指す。構成樹種に葉の表面の照りが強い樹木が多いのでその名がある。」
「マデイラ島と言えば、マデイラ諸島は、北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島である。マデイラ島は同諸島最大の島で741平方km(日本の奄美大島とほぼ同じ大きさ)、東西に長い形をしている。最高峰はルイヴォ山(1,862m)である。島はその名前の由来となった木々(マデイラはポルトガル語で「木」の意味)に覆われ、ラウリシルヴァに代表される豊かな自然が残されている。」
「マデイラ島の照葉樹林は、北大西洋にある「マカロネシア」というエリアに位置するポルトガル領の島ですよ。」
「はい。」
「北大西洋にある「マカロネシア」というエリアと言えば、マデイラ島の照葉樹林は北大西洋にある「マカロネシア」というエリアに位置するポルトガル領の島です。ポルトガルの首都リスボンからは約1000キロメートル。アフリカ大陸からずっと西、およそ700キロメートルも進んだところにあるこのマデイラ島は、その豊穣な大地と動植物のあふれんばかりの生態系から自然遺産として認定されています。」
「ポルトガルの首都リスボンからは、約1000キロメートル離れていますよ。」
「遠いですね。」
「首都リスボンと言えば、リスボンは、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積は84.8 km2 (33 sq mi)を占めているが、リスボンの都市的地域は市域を越えて広がっている。人口は300万人を超え、958 km2(370 sq mi)を占めており欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人の人々が、リスボン都市圏(英語版)に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパでは大都市として最も西にある都市で、同様に最も西側にある首都で唯一、大西洋側に沿っている。リスボンはイベリア半島の西側にあり、テージョ川の河畔に位置している。」
「マデイラ島は、アフリカ大陸から西、およそ700キロメートルも進んだ所にありますよ。」
「はい。」
「その豊穣な大地と動植物のあふれんばかりの生態系から、1999年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に指定されていますよ。」
「はい。」
「この地は、およそ15000ヘクタールもの敷地面積を保有していますよ。」
「広いですね。」
「太古の姿のまま生息している植物が、多く観察できるスポットですよ。」
「そうなんですか。」
「観光スポットとしては、あまり認知度もありませんね。」
「そうなんだ。」
「ヨーロッパ大陸から離れ過ぎている場所のせいもあり、頻繁に観光客が訪れるような世界遺産ではありませんね。」
「そうでしょうね。」
「観光したとしても、気候も本土とは全く異なっていますよ。」
「はい。」
「危険な動植物も多いことから、観光しづらい世界遺産として認知されていますよ。」
「そうなんだ。」
「何しろ、針葉樹も広葉樹も多く生息していますよ。」
「はい。」
「針葉樹と言えば、針葉樹は、葉が針のように細長いマツやスギなどの裸子植物球果植物門の樹木のことである。広葉樹の対義語。常緑性の常緑針葉樹と落葉樹の落葉針葉樹がある。外来種を中心とした園芸用の針葉樹はコニファーと呼ばれる。」
「多様な生物が繁殖しているので、見学するのみであれば非常に楽しめる場所ですよ。」
「はい。」
「しかし、虫も多く、危険な動物も多く生息していますよ。」
「そうなんですか。」
「ある程度ジャングルのような場所やアウトドアな体験に慣れている方でないと、訪問するのは危険な世界遺産かも知れませんよ。」
「そうなんだ。」
「マデイラ島の照葉樹林という場所は、今から600年以上も前に発見された島ですよ。」
「はい。」
「知名度自体は低いものの、大航海時代の幕開けに必要不可欠だった島ですよ。」
「はい。」
「大航海時代と言えば、大航海時代は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。」
「かつて、大航海時代のポルトガルの海洋貿易を引っ張っていた冒険家たちは、長い海を超える為にあらゆる死闘をくぐり抜けていましたよ。」
「そうなんだ。」
「大陸にたどり着く前に食料や水が底をつき、とうとう島が見えてきたというところで、覇権争いの為に撃墜するのですよ。」
「はい。」
「そのような長い苦労を切り開いてくれたのが、この世界遺産ですよ。」
「そうなんだ。」
「「マデイラ島の照葉樹林」として、世界遺産に認められるようになった由縁ですよ。」
「なるほど。」
「このような歴史があることを知っている人は、あまりいませんね。」
「そうでしょうね。」
「ポルトガルへ向かう観光客のほとんどは、このような島ではなく、大聖堂や修道院などを目指してしまいますね。」
「そうだと思います。」
「しかし、行こうと思えば行ける所にありますよ。」
「はい。」
「観光してみると、人生観が少し変わりますよ。」
「そうなんですか。」
「何か素晴らしい体験を求めているのであれば、強くおススメしたい世界遺産ですね。」
「わかりました。」
「ただし、島の内部には危険なスポットも多数存在しますよ。」
「はい。」
「あまり人気のない所には入らないように、気を付けましょう。」
「わかりました。」
ポルトガルの世界遺産~アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモの中心地区~
「アゾレス諸島「アングラ・ド・エロイズモの中心地区」は、1980年に大地震の被害を受けながら見事に復興し、1983年に世界遺産に登録されましたよ。」
「そうなんですか。」
「アゾレス諸島と言えば、アソーレス諸島、またはアゾレス諸島は、大西洋の中央部マカロネシアに位置するポルトガル領の群島。アソーレス諸島全体は自治権を持ち、一つの行政区でもある。ポルトガル沖約1000kmの大西洋上に浮かぶ。1427年に発見された。リスボンから約1500km、北アメリカの東端から3900kmの位置にある。火山が起源で、九つの島からなる。ピコ島の火山ピコ山は標高2351mでアソーレスのみならずポルトガルの最高地点である。」
「アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモと言えば、アングラ・ド・エロイズモは、ポルトガル・アゾレス諸島にある都市である。アングラ・ド・エロイズモ自体は、アゾレス諸島で第3の島であるテルセイラ島の南西部を占める。テルセイラ島の東半分を占めるプライア・ダ・ヴィトリアと隣接する。」
「アゾレス諸島は、ポルトガル沖約1,000キロメートルの大西洋上に位置していますよ。」
「遠いですね。」
「アゾレス諸島は、1942年に発見された9つの島から成る火山島群ですよ。」
「はい。」
「総面積は2,355平方kmですよ。」
「はい。」
「温暖な気候に恵まれ、保養地として親しまれていますよ。」
「そうなんですか。」
「アングラ・ド・エロイズモは、アゾレス諸島で3番目に発見されたとされるテルセイラ島にありますよ。」
「はい。」
「アゾレス諸島で3番目に発見されたとされるテルセイラ島と言えば、テルセイラ島は、大西洋上のアゾレス諸島の島、ポルトガル領である。島の人口はかつて5万9千人ほどであったが、現在は 55,833 人。面積は396.75 平方キロメートルでアゾレス諸島中第3の大きさをもつ。火山島であり、島の最大海抜はセッラ・デ・サンタバールバラ山の 1023 メートル。 セッラ・デ・サンタバールバラ山は成層火山で、最近の噴火は2000年。」
「「テルセイラ」とは、ポルトガル語で「3番目」という意味ですよ。」
「はい。」
「このテルセイラ島は、16世紀~19世紀の大航海時代には、旧大陸と新大陸を結び(アフリカ・インド諸国からの船は寄港を義務付けられていた)、食料品・香辛料を始め、金銀・宝石・絹・象牙などが積み込まれた数々の帆船が行き来しましたよ。」
「そうなんだ。」
「大航海時代と言えば、大航海時代は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。」
「まさに「宝島」ですね。」
「はい。」
「現在も難破船を引き上げると、お宝が発見される事があるようですよ。」
「そうなんですか。」
「夢とロマンが広がる島ですね。」
「はい。」
「「アングラ・ド・エロイズモ」の「エロイズモ(Heroismo)」は、英語にすると「Hero」、つまり「英雄」という意味がありますよ。」
「はい。」
「当時、世界中のお宝を携えて帰ってくる「英雄の町」だったのでしょう。」
「そうなんだ。」
「アングラの町は、500年前からその趣を変えていませんよ。」
「はい。」
「入江の岬の先にあるブラジル山からは、アングラの町を一望できますよ。」
「はい。」
「入江の岬の先にあるブラジル山と言えば、「アングラ・ド・エロイズモ」の「エロイズモ(Heroismo)」は英語にすると「Hero」。つまり「英雄」という意味があります。当時、世界中のお宝を携えて帰ってくる「英雄の町」だったのでしょう。アングラの町は500年前からその趣を変えていません。入江の岬の先にあるブラジル山からはアングラの町を一望できます。美しい街並みの中に、ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会、アングラ博物館、カピタンエス・ジェネイラス宮殿といった美しい建物を見ることが出来ます。」
「美しい街並みの中に、ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会、アングラ博物館、カピタンエス・ジェネイラス宮殿といった美しい建物を見ることが出来ますよ。」
「いろいろありますね。」
「カピタンエス・ジェネイラス宮殿と言えば、入江の岬の先にあるブラジル山からはアングラの町を一望できます。美しい街並みの中に、ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会、アングラ博物館、カピタンエス・ジェネイラス宮殿といった美しい建物を見ることが出来ます。」
「アングラ博物館と言えば、入江の岬の先にあるブラジル山からはアングラの町を一望できます。美しい街並みの中に、ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会、アングラ博物館、カピタンエス・ジェネイラス宮殿といった美しい建物を見ることが出来ます。」
「ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会と言えば、ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会はマヌエル様式の建築物です。ヴァスコダ・ガマがインドへ初の航海に出た時に同行した、兄のパウロ・ダ・ガマが埋葬されています。マヌエル様式とはポルトガルが生んだ独創的な建築様式で、国王マヌエル1世(1495~1521)の時代に確立したものですが、正式に「マヌエル様式」と呼ばれるようになったのは19世紀のことでした。マヌエル様式の特徴は「過剰装飾」であり、最初はどの様式で建築されたのかが分からなくなる程の装飾が施されます。」
「ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会は、マヌエル様式の建築物ですよ。」
「はい。」
「マヌエル様式(の建築物)と言えば、マヌエル様式は、ポルトガル王マヌエル1世統治期(1495‐1521)に行われたゴシック建築様式である。スペインのイサベル様式、初期プラテレスコ様式と同時代で、過剰装飾が特徴。イスラム様式のほか、海洋国らしくモロッコやインドの影響も見られ、船具や海産物などのモティーフも多用されている。この様式はほとんどポルトガル全土に及んだが、代表作にトマールのキリスト修道院、リスボン近郊ベレンのジェロニモス修道院などがある。」
「ヴァスコダ・ガマがインドへ初の航海に出た時に同行した、兄のパウロ・ダ・ガマが埋葬されていますよ。」
「はい。」
「ヴァスコダ・ガマの兄のパウロ・ダ・ガマと言えば、ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会はマヌエル様式の建築物です。ヴァスコダ・ガマがインドへ初の航海に出た時に同行した、兄のパウロ・ダ・ガマが埋葬されています。」
「ヴァスコダ・ガマと言えば、ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃 - 1524年12月24日/25日)は、ポルトガルの航海者、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。バスコ・ダ・ガマとも。」
「マヌエル様式とは、ポルトガルが生んだ独創的な建築様式ですよ。」
「はい。」
「国王マヌエル1世(1495~1521)の時代に確立したものですよ。」
「そうなんだ。」
「国王マヌエル1世と言えば、マヌエル1世(1469年5月31日 -1521年12月13日)は、ポルトガル王(在位:1495年- 1521年)である。傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した。」
「正式に「マヌエル様式」と呼ばれるようになったのは、19世紀のことでしたよ。」
「はい。」
「マヌエル様式の特徴は「過剰装飾」ですよ。」
「そうなんですか。」
「最初は、どの様式で建築されたのかが分からなくなる程の装飾が施されますよ。」
「はい。」
「数々の国との交易があった為か、船やサンゴ、貝殻など海をイメージさせるモチーフが多く見られますよ。」
「はい。」
「他にも、インドや南米の植物なども、モチーフとして取り入れられていますよ。」
「そうなんだ。」
「アングラ・ド・エロイズモは、要塞都市でもありましたよ。」
「そうなんですか。」
「サン・ジョアン・バプティスタ要塞は、ブラジル山を取り囲んで築かれた砦ですよ。」
「はい。」
「サン・ジョアン・バプティスタ要塞と言えば、アングラ・ド・エロイズモは要塞都市でもありました。サン・ジョアン・バプティスタ要塞はブラジル山を取り囲んで築かれた砦です。その距離は4キロメートル、大砲の数は400もあります。古の大航海時代には海賊たちからこの街を守っていたのです。」
「その距離は4キロメートル、大砲の数は400もありますよ。」
「はい。」
「古の大航海時代には、海賊たちからこの街を守っていましたよ。」
「そうなんだ。」
ポルトガルの世界遺産~アルコバッサ修道院~
「アルコバッサ修道院は、1869年に世界文化遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「アルコバッサ修道院(サンタ・マリア・デ・アルコバッサ)と言えば、アルコバーサ修道院(Mosteiro de Alcobaca)は、ポルトガル中部レイリーア県アルコバーサにあるシトー会修道院である。正式名称はMosteiro de Santa Maria de Alcobaca(サンタ・マリーア・ディ・アルコバーサ修道院)、またReal Abadia de Santa Maria de Alcobaca(王立サンタ・マリーア・デ・アルコバーサ大修道院)とも呼ばれる。ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会をはじめ中世の建築群がそのまま残り、1989年、ユネスコの世界遺産に登録された。」
「正式名称は、サンタ・マリア・デ・アルコバッサと言いますよ。」
「はい。」
「リスボンから北へ100㎞ほど離れた小さな町アルコバッサと言えば、アルコバッサ(アルコバサ)は、ポルトガル西部の町である。アルコア川とバサ川の合流点に位置する。1989年にアルコバサ修道院が世界遺産(文化遺産)に登録された。ワインの産地としても知られ、国立ワイン博物館がある。」
「リスボンから北へ100㎞ほど離れた小さな町アルコバッサの街角にある、シトー派の修道院ですよ。」
「そうなんだ。」
「シトー派(カトリック教会に属し、ベネディクト会から派生)と言えば、1098年、中部フランスのシトーに設立された修道会である。ベネディクトゥス修道会の戒律の厳格な励行をかかげ、クリュニー修道院にかわる修道院運動の中心となる。12世紀の半ばには修道院長ベルナルドゥスの指導のもとで発展し、修道士は清貧・服従・労働の生活を守った。」
「首都リスボンと言えば、リスボンは、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積は84.8 km2 (33 sq mi)を占めているが、リスボンの都市的地域は市域を越えて広がっている。人口は300万人を超え、958 km2(370 sq mi)を占めており欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人の人々が、リスボン都市圏(英語版)に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパでは大都市として最も西にある都市で、同様に最も西側にある首都で唯一、大西洋側に沿っている。リスボンはイベリア半島の西側にあり、テージョ川の河畔に位置している。」
「ポルトガルで、最大の初期ゴシック様式の建造物ですよ。」
「そうなんですか。」
「ゴシック様式と言えば、ゴシック様式とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語である。最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適応範囲が広がった。この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。」
「ポルトガル初代国王アフォンソ・エンリケス1世が、独立後に荒廃しきっていたポルトガルへ、シトー派(カトリック教会に属し、ベネディクト会から派生)修道会を招き入れましたよ。」
「はい。」
「修道会と言えば、修道会は、キリスト教の西方教会における組織である。カトリック教会においては教皇庁の認可を受けて、キリスト教精神を共同生活の中で生きる、誓願によって結ばれた信徒の組織である。修道会の会員は修道者といわれる。」
「ポルトガル初代国王アフォンソ・エンリケス1世と言えば、アフォンソ1世(1109年? -1185年12月6日)は、ポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)の初代ポルトガル王(在位:1139年 - 1185年)である。「エンリケの子」を意味するアフォンソ・エンリケスの名前でも呼ばれる。」
「シトー会は農耕や開拓に秀でており、その技術によってポルトガルは新しい国として歩き始めることが出来ましたよ。」
「そうなんだ。」
「シトー会(シトー派修道会)と言えば、シトー会またはシトー修道会は、カトリック教会に属する修道会である。ベネディクト会から派生した。ベルナルド会の別名もある。改革を希求したフランス、ブルゴーニュ地方出身の修道士モレームのロベール(1027年 -1111年)が1098年、フランスのシトーに設立したシトー修道院が発祥である。」
「このことに感謝の意を表し、1178年にアルコバッサ修道院の建築が始まりましたよ。」
「はい。」
「シトー会は質素・簡潔を主旨としていたため、修道院の造りは過剰な装飾もなく簡素なものとなっていますよ。」
「はい。」
「一番多い時には、1,000人の修道士が生活していたと言われていますよ。」
「多いですね。」
「修道士たちの生活場である食堂・寝室・厨房などが残っており、その当時の様子を伺うことができますよ。」
「はい。」
「現在の修道院を見ると、バロック様式のファサードですね。」
「はい。」
「バロック様式のファサードと言えば、ファサード (facade) は、建築物の正面(デザイン)である。ジェズ教会は、かつてイエズス会の本拠地だった教会で世界中のイエズス会の教会はこの教会をモデルとして建てられている歴史のある教会です。バロック式の建物そのものも目をみはるものがあるが、内部の装飾が素晴らしい。なかでも、天井のフレスコ画は首が痛くなるほど見ていたい美しいものです。」
「これは18世紀に改築されたもので、元はゴシック様式でしたよ。」
「そうなんだ。」
「内部には王の間があり、アズレージョにはアルコバッサ修道院の歴史が描かれていますよ。」
「はい。」
「アズレージョと言えば、アズレージョ (ポルトガル語:azulejo、スペイン語ではアスレホ)は、ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイルである。途絶えることなしに5世紀もの間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。ポルトガルへ行けばどこでも、アズレージョは教会、宮殿、一般の家の内や外、鉄道駅や地下鉄駅でさえも見られる。」
「簡素な造りの修道院の中ではほとんど見られない、色彩のある部屋ですよ。」
「はい。」
「聖堂の内部は、多くの建造物に見られる派手な装飾・絵画・彫刻などはなく、とても簡素ですよ。」
「そうなんだ。」
「しかし、その簡素さが厳かな強い精神世界を感じさせてくれますよ。」
「はい。」
「アルコバッサ修道院には、イネスとペドロ王子の棺が安置されていますよ。」
「はい。」
「ペドロ王子(後のペドロ1世)と言えば、ペドロ1世(1320年4月8日 - 1367年1月18日)は、ポルトガル(ブルゴーニュ朝)の国王(在位:1357年 - 1367年)である。「正義王」あるいは「残酷王」と呼ばれる。アフォンソ4世と王妃ベアトリス・デ・カスティーリャの息子。1357年に父王の死去をうけて王位に即いた。」
「イネスと言えば、イネス・デ・カストロ (1325年 -1355年1月7日)は、ポルトガル王ペドロ1世の愛妾または王妃。その美しさから、「しらさぎの首」と謳われた。」
「イネスとペドロ王子の物語は、ポルトガル文学として親しまれている悲恋の物語ですよ。」
「そうなんですか。」
「ポルトガル文学と言えば、ポルトガル文学は、ポルトガル共和国の文学である。ポルトガル文学の始まりは、パイオ・S・デ・タヴェイロによって謳われた12世紀末の恋愛叙事詩に遡る。」
「ペドロ王子の妃として迎えられた、カスティーリャ王国のコンスタンサの女官であったイネスとペドロ王子は、恋に落ちてしまいましたよ。」
「はい。」
「父王アフォンソ4世は、イネスを亡き者とすることを決めましたよ。」
「はい。」
「父王アフォンソ4世と言えば、アフォンソ4世(1291年2月8日 - 1357年5月28日)は、第7代ポルトガル王(在位:1325年 - 1357年)である。ディニス1世と王妃イザベル・デ・アラゴンの子。1340年のサラードの戦い(英語版)で負傷しながらも自ら剣を振るって戦ったため、「勇敢王」と呼ばれる。」
「イネスは暗殺され、王子は深い悲しみにくれますよ。」
「はい。」
「父王の死後、王座についたペドロ1世は、既に埋葬されていたイネスを墓から掘り起し、玉座に座らせ、正式な王妃であることを家臣に認めさせましたよ。」
「そうなんだ。」
「イネスを暗殺した3人は、処刑されたと言いますよ。」
「はい。」
「ペドロ1世とイネスの棺は修道院袖廊の両端に、ペドロ1世の遺言でお互いの足が向き合うように収められていますよ。」
「はい。」
「再生を果たし起き上がった時に、お互いがすぐに見つめあうことが出来るようにと言うことだそうですよ。」
「そうなんだ。」
「イネスの棺の下部は5頭の醜い動物に支えられ、その上にはキリストの誕生から再生を描いたレリーフが施されていますよ。」
「はい。」
「レリーフと言えば、レリーフ (英語 relief、フランス語 relief ルリエフ) は、美術の技法で、浮き彫り、または浮き彫り細工である。芸術品のほか、肖像、地図、硬貨、家具や建築物の外装などに使われる。」
「5頭の醜い動物は、3人の暗殺者の顔に似せていると言われていますよ。」
「はい。」
「ペドロ1世の棺には、聖バーソロミューの生涯が描かれたレリーフが施されていますよ。」
「そうなんだ。」
「聖バーソロミューと言えば、サン・バルテルミの虐殺は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺とも表記される。」
「二人の悲しい恋の物語に思いをはせながらアルコバッサ修道院を歩いて見ると、ふとタイムスリップ出来るかも知れませんね。」
「はい。」
ポルトガルの世界遺産~シントラの文化的景観~
「シントラは、ポルトガルの首都リスボンの隣にある都市で、大西洋を望むことができる山間の美しい街ですよ。」
「そうなんですか。」
「ポルトガルの首都リスボンの隣にある都市シントラと言えば、シントラは、ポルトガルの都市で、首都・リスボンに隣接する地方自治体である。シントラの市街地には約27,000人が居住しているが、市全域では、36万人を超える人口を誇る。ムーア人が築いた城の跡や、ポルトガル王室の夏の離宮など、様々な年代の文化財が集積していることから観光地として有名であり、また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬への観光の拠点でもある。」
「首都リスボンと言えば、リスボンは、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積は84.8 km2 (33 sq mi)を占めているが、リスボンの都市的地域は市域を越えて広がっている。人口は300万人を超え、958 km2(370 sq mi)を占めており欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人の人々が、リスボン都市圏(英語版)に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパでは大都市として最も西にある都市で、同様に最も西側にある首都で唯一、大西洋側に沿っている。リスボンはイベリア半島の西側にあり、テージョ川の河畔に位置している。」
「そのため、古くからポルトガル王家の避暑地として、王家の人々が訪れていましたよ。」
「はい。」
「このシントラにある城跡・王宮・離宮などが、「シントラの文化的景観」として1995年世界文化遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「かの詩人バイロンが、「エデンの園」と称賛した街ですよ。」
「そうなんですか。」
「エデンの園と言えば、エデンの園は、旧約聖書の『創世記』(2:8-3:24)に登場する理想郷の名である。楽園の代名詞になっている。パラダイスとも言う。地上の楽園とも言う。『創世記』の記述によればエデンの園は「東の方」 (2:8) にあり、アダムとイヴはそこにおかれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。」
「詩人バイロンと言えば、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, sixth Baron, 1788年1月22日 - 1824年4月19日)は、イギリスの詩人である。」
「街を歩けば至る所に泉があり、中世さながらの空気を味わうことが出来ますよ。」
「そうなんだ。」
「「シントラの文化的景観」の主な建造物には、「シントラ宮殿」、「ペーナ宮殿」、「ムーアの城跡」、「レガレイラ宮殿」などがありますよ。」
「はい。」
「レガレイラ宮殿と言えば、レガレイラ宮殿は、ポルトガル中西部の都市シントラにある宮殿である。19世紀に富豪アントニオ=モンテイロがポルト出身のレガレイラ男爵から館と荘園を買い取り、20世紀初頭にイタリアの建築家ルイジ=マニーニが改築。ゴシック風、ルネサンス風、マヌエル風などさまざまな建築様式が混在し、庭園には錬金術やフリーメーソンの象徴する意匠が随所に見られる。1995年、シントラ宮殿やペーナ宮殿とともに「シントラの文化的景観」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。」
「ムーアの城跡と言えば、シントラは、すでに11世紀のアラブ人の地理学者であるアル・バクルによる記述が残っており、後には、詩人バイロンが「エデンの園」と称賛した。8世紀ないしは9世紀には、ムーア人が、ムーアの城跡(カステロ・ド・ムーロ)を建設したとされる。」
「ペーナ宮殿と言えば、ペーナ国立宮殿は、ポルトガル・シントラにある宮殿である。19世紀ロマン主義を象徴する建築として有名である。現在、国の文化財となっているペーナ宮殿は、1836年に女王マリア2世の王配(おうはい)フェルナンド2世により建てられた。十分な教育を受けた未来の王フェルナンド2世は、初めて山に登り旧フラデス・ヒエロニミタス修道院の廃墟を目にしたとき、すぐにシントラに一目惚れした。」
「シントラ宮殿と言えば、シントラ国立宮殿 (Palacio Nacional de Sintra)は、ポルトガル・シントラにある宮殿である。少なくとも15世紀初頭から19世紀後半にかけポルトガル王家が住み続けており、ポルトガル国内で最も保存状態の良い中世の王宮である。シントラの文化的景観の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されている。」
「緑の山々の中に、豪奢な宮殿がありますよ。」
「はい。」
「この自然と人工のコントラストが、何とも言えない美しい景観を生み出していますよ。」
「そうなんだ。」
「シントラ宮殿は、14世紀にジョアン1世が夏に避暑をするための離宮として建設しましたよ。」
「はい。」
「ジョアン1世と言えば、ジョアン1世(1357年4月11日 - 1433年8月14日、在位:1385年 - 1433年)は、ポルトガル王国アヴィス王朝の創始者である。ペドロ1世の庶子で、フェルナンド1世の異母弟。エンリケ航海王子の父に当たる。」
「シントラ宮殿と言えば、シントラ国立宮殿 (Palacio Nacional de Sintra)は、ポルトガル・シントラにある宮殿である。少なくとも15世紀初頭から19世紀後半にかけポルトガル王家が住み続けており、ポルトガル国内で最も保存状態の良い中世の王宮である。シントラの文化的景観の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されている。」
「元々は、ムーア人の住居であったものをアフォンソ1世が我が物にしたのでしたよ。」
「はい。」
「ムーア人と言えば、ムーア人は、北西アフリカのイスラム教教徒の呼称である。主にベルベル人を指して用いられる。ローマ時代に北西アフリカの住民(ベルベル人)をマウハリムと呼んだことに由来する。マウハリムはフェニキア人の言葉で「西国の人」を意味する。」
「その後、シントラ宮殿は、1910年に共和国制になるまでポルトガル王家のものであり続けましたよ。」
「そうなんだ。」
「シントラ宮殿の外見は、とてもすっきりして見えますよ。」
「はい。」
「しかし、歴代王家の離宮となってからは、様々な増改築が行われていますよ。」
「はい。」
「ゴシック・マヌエル・イスラム様式が混在し、調和した内部となっていますよ。」
「そうなんですか。」
「イスラム様式と言えば、イスラム教徒に用いられた装飾のことである。植物や動物を主題にして、唐草模様や幾何学的な模様に連続して描かれた、抽象的な装飾模様の「アラベスク」や、アーチやドームの下部に、鍾乳石が垂れ下がった形の装飾の「スタラクタイト」などがある。」
「白鳥の間・紋章の間・鵲の間・アラビアの間などがありますよ。」
「はい。」
「各部屋では、アレージョに描かれた王家の歴史を見ることが出来ますよ。」
「はい。」
「シントラの文化的景観の中で、ひときわ目を引くのがペーナ宮殿ですよ。」
「そうなんですか。」
「こちらも、イスラム・ゴシック・ルネサンス・エマヌエルの様式が集まっていますよ。」
「はい。」
「標高529mの緑の中に、見事な存在感で建っているペーナ宮殿ですね。」
「はい。」
「彩りも黄色や赤・青と多彩で美しいですよ。」
「いいですね。」
「この宮殿は1839年、フェルナンド2世が廃墟となっていたジェロニモス派の修道院を改築したものですよ。」
「はい。」
「ジェロニモス派と言えば、シントラの文化的景観の中でひときわ目を引くのがペーナ宮殿です。こちらもイスラム・ゴシック・ルネサンス・エマヌエルの様式が集まっています。標高529mの緑の中に見事な存在感で建っているペーナ宮殿。彩りも黄色や赤・青と多彩で美しい。この宮殿は1839年、フェルナンド2世が廃墟となっていたジェロニモス派の修道院を改築したものです。出窓にはマヌエル様式で造られた海の守護神トリトンの像が取り付けられている窓枠もあります。内装は王家の離宮にふさわしい装飾となっています。数々のアレージョやイギリスから招いて作らせたトロンプ・ルイユ(だまし絵)などが施されています。」
「フェルナンド2世と言えば、フェルナンド2世(1816年10月29日 - 1885年12月15日)は、ポルトガル女王マリア2世の王配で共同統治王である。イギリス女王ヴィクトリアおよびその王配アルバートの双方の従兄である。また、ベルギー国王レオポルド1世は叔父、ブルガリア国王フェルディナンド1世は甥にあたる。」
「出窓には、マヌエル様式で造られた海の守護神トリトンの像が取り付けられている窓枠もありますよ。」
「はい。」
「海の守護神トリトンと言えば、ペーナ宮殿の出窓にはマヌエル様式で造られた海の守護神トリトンの像が取り付けられている窓枠もあります。」
「マヌエル様式(の建築物)と言えば、マヌエル様式は、ポルトガル王マヌエル1世統治期(1495‐1521)に行われたゴシック建築様式である。スペインのイサベル様式、初期プラテレスコ様式と同時代で、過剰装飾が特徴。イスラム様式のほか、海洋国らしくモロッコやインドの影響も見られ、船具や海産物などのモティーフも多用されている。この様式はほとんどポルトガル全土に及んだが、代表作にトマールのキリスト修道院、リスボン近郊ベレンのジェロニモス修道院などがある。」
「内装は、王家の離宮にふさわしい装飾となっていますよ。」
「そうなんだ。」
「数々のアレージョやイギリスから招いて作らせたトロンプ・ルイユ(だまし絵)などが施されていますよ。」
「はい。」
「イギリスから招いて作らせたトロンプ・ルイユ(だまし絵)と言えば、トロンプ・ルイユ(Trompe-l'oeil、騙し絵)とはシュルレアリスムにおいてよく用いられた手法・技法である。ただし、シュルレアリスムに限って用いられるものではない。フランス語で「眼を騙す」を意味し、トロンプイユと表記されることもある。今日では解りやすく「トリックアート」と呼ばれる事も多い。」
「さらに、レガレイラ宮殿ですよ。」
「はい。」
「12世紀に既に建築されていましたよ。」
「そうなんだ。」
「20世紀前半に、イタリアの建築家によって改築されましたよ。」
「はい。」
「まるで、おとぎ話の中に入り込んだような場所ですよ。」
「そうなんですか。」
「4ヘクタールの広さを持つ城内の庭園には、ギリシャ風彫刻・噴水・らせん階段などがあり、お城を探検する楽しみがありますよ。」
「はい。」
「自分が物語の主人公になったような気持ちになれるでしょう。」
「わかりました。」
ポルトガルの世界遺産~トマールのキリスト教修道院~
「ポルトガルのトマールにあるキリスト教修道院は、12世紀にテンプル騎士団によって建設が始められましたよ。」
「はい。」
「テンプル騎士団(レコンキスタで活躍した騎士)と言えば、テンプル騎士団は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会である。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。」
「トマールと言えば、トマール(Tomar)は、ポルトガルの都市で、サンタレン県に属する。ナバオン川の中流に位置し、ユネスコの世界遺産に登録されているキリスト教修道院やシナゴガ(シナゴーグ)といった歴史遺産や4年ごとに開催されるタブレイロスの祭りで有名である。」
「しかし、14世紀のテンプル騎士団は、ローマ教皇クレメンス5世とフランス王フィリップ4世によって弾圧され、解散を余儀なくされましたよ。」
「はい。」
「フランス王フィリップ4世と言えば、フィリップ4世(1268年 - 1314年11月29日)は、フランス王(在位:1285年 - 1314年)、およびナバラ王してはフェリペ1世(在位:1284年 - 1305年)である。整った顔立ちのため「端麗王」(le Bel、ル・ベル)と称される。」
「ローマ教皇クレメンス5世と言えば、クレメンス5世(1264年 - 1314年4月20日)は、14世紀初めのローマ教皇(在位:1305年 - 1314年)である。教皇庁をアヴィニョンに移転し、アヴィニョン捕囚の時代になった。」
「テンプル騎士団解散後は、キリスト騎士団に引き継がれましたよ。」
「そうなんですか。」
「キリスト騎士団と言えば、キリスト騎士団は、ローマ教皇の命令により1312年に廃止されたポルトガルのテンプル騎士団に相当する勲位である。以前は主イエス・キリスト王立騎士団であった。カトリック教会の影響下にあった他の主権国家ではテンプル騎士団に対して追及と裁判が行われたが、これを拒んだポルトガル王ディニス1世の保護を受けて1318年に創設された。」
「1160年に建設が開始され、以降16世紀まで実に5世紀にわたって増改築が行われましたよ。」
「はい。」
「そのため、ロマネスク・ゴシック・ムデハル・マヌエル・ルネサンスといった様々な建築様式が混在していますよ。」
「そうなんだ。」
「1983年、世界文化遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「キリスト教修道院は、丘の上に建っていますよ。」
「はい。」
「当初は城塞として建設がされたため、ナパオン川に近い丘の上に位置することになりましたよ。」
「そうなんだ。」
「ナパオン川と言えば、ポルトガルのトマールにあるキリスト教修道院は、丘の上に建っています。当初は城塞として建設がされた為、ナパオン川に近い丘の上に位置することになったのです。その城塞の跡にキリスト教修道院が建てられました。キリスト教修道院の外側にはマヌエル様式の精巧な装飾がなされています。」
「その城塞の跡に、キリスト教修道院が建てられましたよ。」
「はい。」
「キリスト教修道院の外側には、マヌエル様式の精巧な装飾がなされていますよ。」
「はい。」
「マヌエル様式(の建築物)と言えば、マヌエル様式は、ポルトガル王マヌエル1世統治期(1495‐1521)に行われたゴシック建築様式である。スペインのイサベル様式、初期プラテレスコ様式と同時代で、過剰装飾が特徴。イスラム様式のほか、海洋国らしくモロッコやインドの影響も見られ、船具や海産物などのモティーフも多用されている。この様式はほとんどポルトガル全土に及んだが、代表作にトマールのキリスト修道院、リスボン近郊ベレンのジェロニモス修道院などがある。」
「一番の見所は、テンプル騎士団によって建てられたロマネスク建築の教会堂(円堂)は、外から見ると、16角形ですよ。」
「そうなんだ。」
「ロマネスク建築と言えば、ロマネスク建築は、 中世西ヨーロッパの建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す。最初のヨーロッパ建築と言っても過言ではない。同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されており、彫刻や絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。」
「しかし、内部は8角形の構造をしていますよ。」
「そうなんですか。」
「教会堂の内部に入ると、壁にはキリストの生涯を描いたゴシック様式の絵画とパネルが、飾られていますよ。」
「はい。」
「ゴシック様式と言えば、ゴシック様式とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語である。最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適応範囲が広がった。この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。」
「中央部8角形の中には、十字架のイエス像・聖者・天使の彫像で飾られていますよ。」
「はい。」
「まさに、世界遺産たる所以の美しさですね。」
「いいですね。」
「次に、エンリケ航海王子によって増築された「墓の回廊」と「沐浴の回廊」を通ります。」
「はい。」
「沐浴と言えば、沐浴(もくよく)とは、からだを水で洗い潔めることである。宗教的な儀式を指すことが多い。乳児の体を洗うことも含まれる。沐は水を頭から浴びること、浴は水に身体を浸けることを意味する。水や湯を用いることが一般的である。それ以外にも煙・火・香料などによりけがれを落とすことも沐浴に含める。」
「エンリケ航海王子と言えば、エンリケ航海王子(1394年3月4日- 1460年11月13日)は、ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィス王朝を開いたジョアン1世の子であり、後に初代のヴィゼウ公公となる。」
「「墓の回廊」は、文字通りお墓ですよ。」
「はい。」
「騎士団に所属する騎士と修道僧のために建設されましたよ。」
「そうなんだ。」
「この墓所は、マヌエル様式の建築になっており、ヴァスコダ・ガマの兄弟のディオゴ・ダ・ガマのお墓もありますよ。」
「はい。」
「ヴァスコダ・ガマの兄弟のディオゴ・ダ・ガマと言えば、エンリケ航海王子によって増築された「墓の回廊」は文字通りお墓で、騎士団に所属する騎士と修道僧のために建設されました。この墓所は、マヌエル様式の建築になっており、ヴァスコダ・ガマの兄弟のディオゴ・ダ・ガマのお墓もあります。」
「ヴァスコダ・ガマと言えば、ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃 - 1524年12月24日/25日)は、ポルトガルの航海者、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。バスコ・ダ・ガマとも。」
「「沐浴の回廊」は、2階建てとなっていますよ。」
「はい。」
「かつて、ここで修道僧らが沐浴をしたことから名づけられていますよ。」
「そうなんだ。」
「他に、「サンタ・バルバラの回廊」、「ジョアン3世の回廊」がありますよ。」
「はい。」
「ジョアン3世と言えば、ジョアン3世(1502年6月6日 - 1557年6月11日)は、ポルトガル王(在位:1521年 - 1557年)である。「敬虔王」(Piedoso)と呼ばれる。マヌエル1世とカトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世)の三女マリアの息子。父王の死去により19歳で王位を継承する。」
「サンタ・バルバラの回廊(教会堂の裏手)には、1510年~1513年に造られたマヌエル様式の窓がありますよ。」
「はい。」
「非常に精巧な造りで、鎖・マスト・ロープ等、まさに大航海時代を思わせるものですよ。」
「そうなんですか。」
「大航海時代と言えば、大航海時代は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。」
「ジョアン3世(1521年-1557年)の回廊は、ルネサンス様式の傑作と言われていますよ。」
「そうなんだ。」
「ルネサンス様式と言えば、ルネサンス様式は、15~17世紀初頭に、イタリアを中心に広くヨーロッパに普及した建築・美術様式である。古代ギリシャ・ローマ様式を復興させ、建築ではシンメトリー(左右対称)とバランス(調和)を重視した。大理石の床、円柱やアーチ、絵画や彫刻で飾った壁、コーニスを施した外壁などが特徴。家具も彫刻や象嵌 (ぞうがん)などで豪華に飾られた。イタリアのフィレンツェ大聖堂、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂、フランスのルーブル宮(現ルーブル美術館)、シャンボール城などが代表例。」
「しかし、ジョアン3世の在位中には完成を見ず、完成は1591年のことでしたよ。」
「はい。」
「修道僧の祈りの場・読書の場であった「カラスの回廊」、貧しい人々にパンを分け与えていた「パンの回廊」や旅人・巡礼者の宿泊施設であった場所、水を供給する水道橋などがありますよ。」
「はい。」
「このキリスト教修道院に、数々の人々が訪れていたことを偲ぶことが出来ますよ。」
「わかりました。」
ポルトガルの世界遺産~バターリャ修道院~
「ポルトガル中央部の都市バターリャにあるバターリャ修道院は、1983年に世界文化遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「バターリャ修道院(正式名称は、聖母マリア修道院)と言えば、バターリャ修道院は、ドミニコ修道会の修道院であり、ポルトガル・レイリア地方の都市であるバターリャにある。ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院は、切妻屋根、尖塔と小尖塔、控え壁によって多くの人々を驚嘆させる。バターリャ修道院は、ポルトガルの独立を象徴する建築物であり、1983年、ユネスコの世界遺産に登録された。」
「ポルトガル中央部の都市バターリャと言えば、バターリャは、レイリア県にある地方自治体である。中心市街地には、7,500人ほど、そのほかの行政区を含めて、15,000人が居住している。バターリャの歴史は、ジョアン1世が1385年8月14日にアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍を破ったことを祝して建設したバターリャ修道院とともに始まった。」
「正式名称は、聖母マリア修道院ですよ。」
「はい。」
「その由来は、アルジュバロータの戦で不利な状況であったジョアン1世に、奇跡的な勝利をもたらしてくれた聖母マリアへの感謝のために、建設が始められましたよ。」
「そうなんだ。」
「アルジュバロータの戦と言えば、アルジュバロータの戦いは、1385年8月14日、ポルトガル王ジョアン1世および将軍ヌノ・アルヴァレス・ペレイラ率いるポルトガル軍とカスティーリャ王フアン1世の軍との間で、ポルトガル王位を巡って行われた戦闘である。カスティーリャ軍は決定的敗北を喫し、ジョアン1世のポルトガル王位が確立された。」
「ジョアン1世と言えば、ジョアン1世(1357年4月11日 - 1433年8月14日、在位:1385年 - 1433年)は、ポルトガル王国アヴィス王朝の創始者である。ペドロ1世の庶子で、フェルナンド1世の異母弟。エンリケ航海王子の父に当たる。」
「バターリャには、戦闘という意味がありますよ。」
「はい。」
「バターリャ修道院は、1386年~1517年もの期間をかけて建築が進められていきましたが、完成には至っていませんよ。」
「はい。」
「そのため、「未完の礼拝堂」と呼ばれる礼拝堂がありますよ。」
「そうなんですか。」
「2世紀にもわたって建築されたため、ゴシック様式とマヌエル様式が混在した建造物となりましたよ。」
「はい。」
「ゴシック様式と言えば、ゴシック様式とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語である。最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適応範囲が広がった。この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。」
「マヌエル様式(の建築物)と言えば、マヌエル様式は、ポルトガル王マヌエル1世統治期(1495‐1521)に行われたゴシック建築様式である。スペインのイサベル様式、初期プラテレスコ様式と同時代で、過剰装飾が特徴。イスラム様式のほか、海洋国らしくモロッコやインドの影響も見られ、船具や海産物などのモティーフも多用されている。この様式はほとんどポルトガル全土に及んだが、代表作にトマールのキリスト修道院、リスボン近郊ベレンのジェロニモス修道院などがある。」
「バターリャ修道院は、入口・身廊・創設者の礼拝堂・未完の礼拝堂・王の回廊・洗盤・アフォンソ5世の回廊で構成されていますよ。」
「はい。」
「アフォンソ5世と言えば、アフォンソ5世(1432年1月15日 - 1481年8月28日)は、ポルトガル王(在位:1438年 - 1481年)である。ドゥアルテ1世とアラゴン王フェルナンド1世の娘レオノールの子。アフリカ王(Africano)と呼ばれる。」
「広場には、ジョアン1世の騎馬像がありますよ。」
「そうなんだ。」
「入口は、アーチヴォールトの形で出来ていますよ。」
「はい。」
「アーチヴォールトの形と言えば、ヴォールト(英語:vault)とは、アーチを平行に押し出した形状(かまぼこ型)を特徴とする天井様式および建築構造の総称である。日本語では「穹窿(きゅうりゅう)」と訳される。ヴォールトは、アーチ断面を水平に押し出したものである。広い空間を柱の数を少なく支えることができる。」
「天蓋の下には、78体もの聖像が飾られていますよ。」
「はい。」
「この聖像は、旧約聖書に出てくる王・天使・預言者・聖者達ですよ。」
「そうなんですか。」
「聖者に囲まれた、細やかで美しい空間ですよ。」
「はい。」
「その先には、キリストの戴冠が彫刻されていますよ。」
「そうなんだ。」
「身廊は、装飾も少なく静かな空間となっていますよ。」
「はい。」
「高さ32m・幅22mですよ。」
「はい。」
「ステンドグラスから差し込む柔らかな太陽の光が、心を和らげてくれますよ。」
「そうなんだ。」
「ステンドグラスをポルトガルで初めて取り付けたのは、バターリャ修道院ですよ。」
「そうなんですか。」
「一番古いステンドグラスは、1430年代のものとされていますよ。」
「はい。」
「創設者の礼拝堂には、ジョアン1世と王妃フィリパ・デ・ランカスターの棺が安置されていますよ。」
「はい。」
「(ジョアン1世の)王妃フィリパ・デ・ランカスターと言えば、フィリパ・デ・レンカストレ(1359年3月31日 - 1415年7月19日)、英語名フィリッパ・オブ・ランカスターは、ポルトガル国王ジョアン1世の王妃である。イングランドの王子、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとその最初の妃ブランシュの娘。1387年2月2日、ポルトでジョアン1世と結婚した。政略結婚ではあったが、教養があり、イングランドの騎士道的精神にも通じた王妃は、宮廷の中心人物となり、王とも円満だった。」
「エンリケ航海王子や歴代の国王のお墓もありますよ。」
「そうなんだ。」
「エンリケ航海王子と言えば、エンリケ航海王子(1394年3月4日- 1460年11月13日)は、ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィス王朝を開いたジョアン1世の子であり、後に初代のヴィゼウ公公となる。」
「創設者の礼拝堂は、ポルトガル初のパンテオン(神殿)ですよ。」
「はい。」
「未完の礼拝堂は王室第2の霊廟となるため、ドゥアルテ1世によって1437年に工事が始まりましたよ。」
「はい。」
「ドゥアルテ1世と言えば、ドゥアルテ1世(1391年10月31日 -1438年9月13日)は、ポルトガル王(在位:1433年 - 1438年)である。ジョアン1世とランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパの息子。雄弁王と呼ばれる。なお、弟であるエンリケ航海王子を描いたとされる肖像画は、実はドゥアルテ1世を描いたものであるという説が近年出ている。」
「八角形になっており、その一部が扉になっていますよ。」
「そうなんだ。」
「最初は、ゴシック建築で進められていましたよ。」
「はい。」
「マテウス・フェルナンデスに移ってからは、マヌエル様式に変わり、1509年に完成しましたよ。」
「はい。」
「マテウス・フェルナンデスと言えば、マテウス・フェルナンデスはポルトガル人の建築家であり、1490年から1515年の間、バターリャ修道院の建築の指揮を執りました。」
「扉の上部、何重にも重なって装飾がほどこされ、差し込む光と相まって、より美しい印象を与えていますよ。」
「そうなんだ。」
「王の回廊は、マヌエル様式とゴシック様式の調和が何とも美しい回廊ですよ。」
「はい。」
「ゴシック様式と言えば、ゴシック様式とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語である。最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適応範囲が広がった。この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。」
「王の回廊のアーチ部分の飾りは、ゴシック様式で完成した100年後にマヌエル様式の飾りを施したものですよ。」
「はい。」
「王の回廊にある3段の噴水の周りを取り囲む彫刻の美しさも、見所ですよ。」
「そうなんですか。」
「バターリャ修道院が未完である理由は、1521年にジョアン3世にありますよ。」
「はい。」
「ジョアン3世と言えば、ジョアン3世(1502年6月6日 - 1557年6月11日)は、ポルトガル王(在位:1521年 - 1557年)である。「敬虔王」(Piedoso)と呼ばれる。マヌエル1世とカトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世)の三女マリアの息子。父王の死去により19歳で王位を継承する。」
「ジョアン3世がジェロニモス修道院の建築に力を入れたため、バターリャ修道院の建築を止めてしまったためでしたよ。」
「そうなんだ。」
「リスボンのジェロニモス修道院と言えば、ジェロニモス修道院とは、ポルトガルの首都であるリスボンのベレン地区にある修道院であり、世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産のひとつである。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。付近には同じく世界遺産であるベレンの塔や発見のモニュメントが存在する。」
ポルトガルの世界遺産~ポルト歴史地区~
「ポルトは、ポルトガル北部の港湾都市ですよ。」
「はい。」
「ポルトガル北部の港湾都市ポルトと言えば、ポルトは、ポルトガル北部の港湾都市である。人口約263,000人。リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。同国屈指の世界都市であり、ポルト都市圏では、人口は約160万人を数える。ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。」
「ポルトガルでは、リスボンに次ぐ二番目の都市ですよ。」
「そうなんですか。」
「首都リスボンと言えば、リスボンは、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積は84.8 km2 (33 sq mi)を占めているが、リスボンの都市的地域は市域を越えて広がっている。人口は300万人を超え、958 km2(370 sq mi)を占めており欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人の人々が、リスボン都市圏(英語版)に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパでは大都市として最も西にある都市で、同様に最も西側にある首都で唯一、大西洋側に沿っている。リスボンはイベリア半島の西側にあり、テージョ川の河畔に位置している。」
「ポルトの旧市街が、1996年に「ポルト歴史地区」として世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「ポルト歴史地区と言えば、ポルト歴史地区は、1996年に登録された世界遺産(文化遺産)で、ポルトガル北西部に位置する、首都リスボンに次ぐ同国第2の都市である。ドーロ川北岸の丘陵に建設されてから、1000年以上の歴史を持つ。ロマネスク様式の聖歌隊席を持つ大聖堂やサン・フランシスコ聖堂、クレリゴス聖堂、典型的なマヌエル様式のサンタ・クララ聖堂などが点在する。18世紀にポルト港からイギリスに向けて盛んに特産ワインが輸出され、「ポートワイン(ポルト・ワイン)」と呼ばれて有名になった。」
「ポルト歴史地区には、聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、聖フランシスコ聖堂などが含まれますよ。」
「いろいろありますね。」
「ポルト歴史地区の聖フランシスコ聖堂と言えば、ポルト歴史地区の中で見逃せないのが、ターリャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾で有名なサン・フランシスコ教会です。ゴシック様式で建てられていますが、内部はバロック様式の装飾です。この内部の装飾が圧巻です。」
「ポルト歴史地区のポルサ宮と言えば、ボルサ宮は、ごく最近まで取引証券所でした(現在は商工会議所が使用している)。中に入ると「法廷の間」「黄金の間」「アラブの間」があります。「法廷の間」では実際に裁判が行われていました。「黄金の間」今でも使われており、レセプションなどに使用されます。「アラブの間」はスペインのアルハンブラ宮殿を模したと言われています。アラベスク調のタイルが部屋中を埋めています。」
「ポルトと言えば、ポートワインで有名ですね。」
「はい。」
「ポートワインと言えば、ポートワイン(英語:Port Wine)またはヴィーニョ・ド・ポルト(ポルトガル語:Vinho do Porto)は、ポルトガル北部ポルト港から出荷される特産の酒精強化ワインである。日本の酒税法上では甘味果実酒に分類される。ポルト・ワインともいう。」
「エンリケ航海王子の出生地であり、王子の海外進出の足掛かりともなった地ですよ。」
「はい。」
「ポルトの起源は、B.C.4000~3000年とされていますね。」
「そうなんですか。」
「ローマ時代には、ポルトゥス・カレと呼ばれる屈指の貿易港であり、実はポルトガルの国名の由来ともなっていますよ。」
「はい。」
「(ローマ時代に)ポルトゥス・カレ(と呼ばれた屈指の貿易港)と言えば、ポルトと言えばポートワインで有名ですが、かのエンリケ航海王子の出生地であり、王子の海外進出の足掛かりともなった地です。ポルトの起源はB.C.4000~3000年だとされています。ローマ時代にはポルトゥス・カレと呼ばれる屈指の貿易港であり、実はポルトガルの国名の由来ともなっているのです。」
「旧市街そのものが世界遺産ですから、見るものすべてに目を奪われますよ。」
「そうなんだ。」
「街のほぼ中心にあるサン・ベント駅は、1916年に完成しましたよ。」
「はい。」
「街のほぼ中心にあるサン・ベント駅と言えば、ポルト旧市街のほぼ中心にあるサン・ベント駅は1916年に完成しました。この駅の構内には2万枚、面積にして551㎡もあるアズレージョ(ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイル)があります。このアズレージョにはポルトの歴史が描かれており、いくつもの物語を読んでいくようです。駅構内にある絵物語です。」
「この駅の構内には、2万枚、面積にして551㎡もあるアズレージョですよ。」
「はい。」
「アズレージョと言えば、アズレージョ (ポルトガル語:azulejo、スペイン語ではアスレホ)は、ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイルである。途絶えることなしに5世紀もの間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。ポルトガルへ行けばどこでも、アズレージョは教会、宮殿、一般の家の内や外、鉄道駅や地下鉄駅でさえも見られる。」
「このアズレージョには、ポルトの歴史が描かれていますよ。」
「そうなんですか。」
「いくつもの物語を読んでいくようですよ。」
「はい。」
「まさに、駅構内にある絵物語ですね。」
「はい。」
「街の中で最も古い建造物であるポルト大聖堂は、ロマネスク様式の建築物ですよ。」
「そうなんだ。」
「ポルト歴史地区のポルト大聖堂と言えば、街の中で最も古い建造物である、ポルト大聖堂は、ロマネスク様式の建築物です。建築を始めた頃はロマネスク様式でしたが、度重なる改築によりバロック様式や他の様式と混在するようになりました。大聖堂はバロック時代に大きな変貌をとげました。バロック様式の涼み廊が増築されたのもこの時代のことでした。ただ、ファサード正面はロマネスク様式のままを保っています。」
「建築を始めた頃は、ロマネスク様式でしたよ。」
「はい。」
「度重なる改築により、バロック様式や他の様式と混在するようになりましたよ。」
「はい。」
「大聖堂は、バロック時代に大きな変貌をとげましたよ。」
「そうなんですか。」
「バロック様式の涼み廊が増築されたのも、この時代のことでしたよ。」
「はい。」
「ただ、ファサード正面は、ロマネスク様式のままを保っていますよ。」
「はい。」
「ファサードと言えば、ファサード (facade) は、建築物の正面(デザイン)である。フランス語に由来し、英語のfaceと同根。最も目に付く場所であり、重要視される。」
「ボルサは“宮”とつくので、宮殿と思ってしまいそうですね。」
「そうですね。」
「実はごく最近まで取引証券所でしたよ。(現在は商工会議所が使用しています)」
「はい。」
「中に入ると、「法廷の間」、「黄金の間」、「アラブの間」がありますよ。」
「はい。」
「「法廷の間」では、実際に裁判が行われていましたよ。」
「そうなんですか。」
「黄金の間」は、今でもレセプションなどに使用されますよ。」
「はい。」
「「アラブの間」は、スペインのアルハンブラ宮殿を模したと言われていますよ。」
「はい。」
「スペインのアルハンブラ宮殿と言えば、アルハンブラ宮殿は、スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘の上に位置する城塞・宮殿である。ウマの背のような形をした丘は頂上部が長さ 740 m 、幅 205 m にわたって平坦になっており、夏場非常に暑いと言われるグラナダの中でもとても涼しい場所に位置している。」
「アラベスク調のタイルが、部屋中を埋めていますよ。」
「そうなんだ。」
「アラベスク調(のタイル)と言えば、ボルサ宮の「アラブの間」は、スペインのアルハンブラ宮殿を模したと言われています。アラベスク調のタイルが部屋中を埋めています。」
「ボルサ宮の向かい側には、ポルトガルの英雄、エンリケ航海王子の銅像が建っていますよ。」
「はい。」
「エンリケ航海王子と言えば、エンリケ航海王子(1394年3月4日- 1460年11月13日)は、ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィス王朝を開いたジョアン1世の子であり、後に初代のヴィゼウ公公となる。」
「ポルト歴史地区の中で見逃せないのが、ターリャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾で有名なサン・フランシスコ教会ですよ。」
「はい。」
「ターリャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾と言えば、サン・フランシスコ教会内部はターリャ・ドウラーダ (金泥細工)と呼ばれるバロック装飾、天井、壁、柱の すべてにつる草、鳥、天使などの彫刻が施され、さらに金箔が貼られている。」
「ターリャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾で有名なサン・フランシスコ教会と言えば、ポルト歴史地区の中で見逃せないのが、ターリャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾で有名なサン・フランシスコ教会です。ゴシック様式で建てられていますが、内部はバロック様式の装飾です。この内部の装飾が圧巻です。」
「ゴシック様式で建てられていますが、内部はバロック様式の装飾ですよ。」
「そうなんですか。」
「ゴシック様式と言えば、ゴシック様式とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語である。最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適応範囲が広がった。この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。」
「この内部の装飾が圧巻ですよ。」
「そうなんだ。」
「なんと600㎏の金箔を使って飾られていますよ。」
「凄いですね。」
「主礼拝堂には、「キリストの木」と呼ばれる木工細工・「ジェッセの樹(キリストの家系図)」、「無原罪の御宿り」がありますよ。」
「はい。」
「「無原罪の御宿り」と言えば、無原罪の御宿りとは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れととがを存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義である。無原罪懐胎(むげんざいかいたい)とも。1854年に正式に信仰箇条として宣言決定された。」
「「キリストの木」と呼ばれる木工細工・「ジェッセの樹(キリストの家系図)」と言えば、サン・フランシスコ教会の内部の装飾が圧巻です。なんと600㎏の金箔を使って飾られているのです。主礼拝堂には「キリストの木」と呼ばれる木工細工・「ジェッセの樹(キリストの家系図)」「無原罪の御宿り」があります。」
「ポルト歴史地区には、カフェにも歴史がありますよ。」
「そうなんですか。」
「20世紀初期のアールヌーボー調インテリアが美しい、カフェ・マジェスティックへも是非どうぞ。」
「わかりました。」
「カフェ・マジェスティックと言えば、ポルトの目抜き通りに当たるSanta Catarina。ブティックが並立しており、その中でうっかり見落として通り過ぎてしまうのが、この老舗のカフェ、Majestic Cafeです。」
「(20世紀初期の)アールヌーボー調(インテリア)と言えば、アール・ヌーヴォー(フランス語: Art Nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動である。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐に亘った。」
ポルトガルの世界遺産~リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔~
「ポルトガルの首都リスボンに、ベレン地区という場所がありますね。」
「そうなんですか。」
「ポルトガルの首都リスボンのベレン地区と言えば、サンタマリア・デ・ベレン(Santa Maria de Belem)地区または単にベレン(Belem)地区は、リスボン市中心部からテージョ川沿いに6kmほど西に位置する地区である。ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路発見に出発した地である。」
「首都リスボンと言えば、リスボンは、ポルトガルの首都で同国最大の都市である。市域人口は547,631人を擁し、市域面積は84.8 km2 (33 sq mi)を占めているが、リスボンの都市的地域は市域を越えて広がっている。人口は300万人を超え、958 km2(370 sq mi)を占めており欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。約3,035,000人の人々が、リスボン都市圏(英語版)に暮らし、ポルトガルの全人口の約27%を占めている。リスボンはヨーロッパでは大都市として最も西にある都市で、同様に最も西側にある首都で唯一、大西洋側に沿っている。リスボンはイベリア半島の西側にあり、テージョ川の河畔に位置している。」
「このベレン地区には、世界遺産の「ジェロニモス修道院」と「ベレンの塔」がありますよ。」
「はい。」
「ベレンの塔と言えば、ベレンの塔はリスボンのベレン地区にある塔で、「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産として世界遺産リストに登録されている。16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。建築様式はマヌエル様式である。」
「リスボンのジェロニモス修道院と言えば、ジェロニモス修道院とは、ポルトガルの首都であるリスボンのベレン地区にある修道院であり、世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産のひとつである。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。付近には同じく世界遺産であるベレンの塔や発見のモニュメントが存在する。」
「どちらも、マヌエル様式(ポルトガル独自の建築様式)の代表的な建築物ですよ。」
「はい。」
「マヌエル様式(の建築物)と言えば、マヌエル様式は、ポルトガル王マヌエル1世統治期(1495‐1521)に行われたゴシック建築様式である。スペインのイサベル様式、初期プラテレスコ様式と同時代で、過剰装飾が特徴。イスラム様式のほか、海洋国らしくモロッコやインドの影響も見られ、船具や海産物などのモティーフも多用されている。この様式はほとんどポルトガル全土に及んだが、代表作にトマールのキリスト修道院、リスボン近郊ベレンのジェロニモス修道院などがある。」
「ジェロニモス修道院は、エンリケ航海王子(1394-1460)とヴァスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)の偉業を称え建築されたものですよ。」
「そうなんだ。」
「エンリケ航海王子と言えば、エンリケ航海王子(1394年3月4日- 1460年11月13日)は、ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィス王朝を開いたジョアン1世の子であり、後に初代のヴィゼウ公公となる。」
「1502年、マヌエル1世によって建築が始まりましたよ。」
「はい。」
「1511年には大部分が出来上がっていたにも関わらず、全てが完成するまでに300年の歳月を要していますよ。」
「長くかかったのですね。」
「建築費は膨大なものでしたよ。」
「はい。」
「着工当初は、ヴァスコ・ダ・ガマが航海で手に入れた品物を売却して得たお金で賄われ、その後も貿易による収入を使って建てられたと言われていますよ。」
「はい。」
「まさに、ポルトガルの栄耀栄華を象徴する建物と言えるでしょう。」
「そうなんだ。」
「1983年に世界文化遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「マヌエル様式の粋を集めて建築されたジェロニモス修道院は、テージョ川に面していますよ。」
「はい。」
「テージョ川と言えば、タホ川(スペイン語:el Tajo 発音: [ltaxo])、テージョ川(ポルトガル語:o Tejo 発音:[ltεζu] テージュ)は、イベリア半島で最も長い全長1,008kmの川である。そのうち上流側の約700kmがスペインにあり、河口側の約300kmがポルトガル領である。間の47kmは両国の国境となっている。」
「南門には、エンリケ航海王子が剣を持っている像がありますよ。」
「はい。」
「壁には、聖ジェロニモスの生涯が記されていますよ。」
「そうなんですか。」
「マヌエル様式の特徴は「過剰な装飾」にありますよ。」
「はい。」
「その過剰な装飾の美しさに、見る者は引き込まれてしまいますよ。」
「はい。」
「礼拝堂に入ると入り口近くに、ヴァスコ・ダ・ガマとルイス・ヴァス・デ・カモンイス(詩人)のお墓がありますよ。」
「そうなんだ。」
「ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(詩人)と言えば、ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luis Vaz de Camoes、1524年頃 - 1580年6月10日)は、ポルトガル史上最大の詩人とされる人物である。その作品はホメロス、ヴェルギリウス、ダンテなどの古典詩人と比較される。かつてポルトガルで発行されていた500エスクード紙幣に肖像が印刷されていた。」
「修道院内部には、「回廊」がありますよ。」
「はい。」
「回廊はとても天井が高く、マヌエル様式の特徴である鎖、縄、サンゴや海藻の彫刻に隙間なく飾られていますよ。」
「そうなんだ。」
「白く美しくリアルな彫刻の回廊に、マヌエル様式のすべてが埋め込まれているようですよ。」
「はい。」
「「ベレンの塔」は、テージョ川沿いにありますよ。」
「はい。」
「その昔テージョ川に出入りする船を要塞として監視し、リスボンの町を守っていましたよ。」
「そうなんだ。」
「ジェロニモス修道院と同じく、1983年に世界文化遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「3階建てで、マヌエル様式の石造りですよ。」
「はい。」
「ヴァスコダ・ガマやマゼラン世界一周の偉業を記念して建設されたと言われていますよ。」
「そうなんですか。」
「マゼラン(世界一周)と言えば、フェルディナンド・マゼラン(英語:Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、ポルトガル人であるマゼランが率いたスペインの艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。」
「ヴァスコダ・ガマと言えば、ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃 - 1524年12月24日/25日)は、ポルトガルの航海者、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。バスコ・ダ・ガマとも。」
「要塞であったことを物語るように、1階には牢獄が(満潮時には水につかるようになっている)、2階には砲台がありますよ。」
「はい。」
「現在、3階は小さな博物館となっていますが、当時は王室の居室になっていたようですよ。」
「はい。」
「ベレンの塔は、別名「テージョ川の貴婦人」とも呼ばれていますよ。」
「そうなんですか。」
「時には貴婦人のように優雅で美しく、時には町を守る堅固な要塞となり、時には長い航海から戻ってくる船乗りを優しく迎えるという、リスボンのシンボルと言える建造物ですね。」
「わかりました。」
世界遺産のおすすめ~基礎・人気・日本・ユネスコ~
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