中国の世界遺産と歴史
「雄大な大地が広がる中国には、およそ40もの世界遺産がありますよ。」
「たくさんありますね。」
「世界遺産の中で最も有名なものは、皆さんもよくご存じの「万里の長城」ですね。」
「そうですね。」
「世界の七不思議の中の一つの中国の「万里の長城」と言えば、万里の長城は、中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。秦の始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。」
「この万里の長城は、世界遺産に指定されているだけではなく、「世界の七不思議」にも選定されていますよ。」
「そうなんですか。」
「その七不思議とは、メキシコにある「チチェン・イッツァのピラミッド」、ブラジルにある「イエス・キリスト像」、ペルーの「マチュ・ピチュ」、ヨルダンの「ペトラ」、イタリアの「コロッセオ」、インドの「タージ・マハル」など世界有数の文化遺産が選定されていますよ。」
「そうなんだ。」
「世界の七不思議の中の一つのインドの「タージ・マハル」と言えば、タージ・マハル(英語: Taj Mahal)は、インド北部アーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟である。インド・イスラーム文化の代表的建築である。1632年着工、1653年竣工と言われる。」
「世界の七不思議の中の一つのイタリアの「コロッセオ」と言えば、コロッセウム(ラテン語:Colosseum, イタリア語:Colosseo コロッセオ)は、ローマ帝政期に造られた円形闘技場である。英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。現在ではローマを代表する観光地である。コロッセウムはネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設された。フラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス闘技場」(フラウィウス円形闘技場)が本来の名前である。しかし、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたためコロッセウムと呼ばれるようになったといわれている。」
「世界の七不思議の中の一つのヨルダンの「ペトラ」と言えば、ペトラは、ヨルダンにある遺跡である。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。2007年7月、新・世界七不思議に選出。ペトラのある地は、自然の要害であった。また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。」
「世界の七不思議の中の一つのペルーの「マチュ・ピチュ」と言えば、マチュ・ピチュは、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷(英語版)に沿った高い山の尾根(標高2,430m)に所在する、15世紀のインカ帝国の遺跡である。山裾からは遺跡の存在は確認できないことから、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと雅称される。一方、遺跡の背後に見える尖った山はワイナ・ピチュ (若い峰)で、標高2720m。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にはマチュ・ピチュの太陽の神殿に対する月の神殿が存在する。」
「世界の七不思議の中の一つのブラジルにある「イエス・キリスト像」と言えば、コルコバードのキリスト像(ブラジルポルトガル語:Cristo Redentor、クリスト・ヘデントール)は、ブラジルのリオデジャネイロのコルコバードの丘にある、巨大なキリスト像である。1931年のブラジル独立100周年を記念して、1922年から1931年にかけて建設された。高さ39.6メートル(内台座の高さが9.5メートル)、左右30メートルであり、635トンの重量がある。」
「世界の七不思議の中の一つのメキシコにある「チチェン・イッツァのピラミッド」と言えば、チチェン・イッツァ(スペイン語:Chichen Itza)は、1988年に世界遺産に登録されたメキシコのマヤ文明の遺跡である。マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神。ケツァルコアトルのマヤ語名)を祀るピタミッド。基底55.3メートル四方、高さ24メートル(頂上の神殿部分は6メートル)。通称の「カスティーヨ」はスペイン語で城塞の意。「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれる。」
「この名だたる文化遺産の中に、万里の長城も含まれていますよ。」
「はい。」
「世界の七不思議に選ばれる文化遺産は、そんなにありませんよ。」
「そうなんですか。」
「万里の長城は、中国きっての世界遺産(文化遺産)となっていますね。」
「はい。」
「しかし、中国にある世界遺産は、万里の長城ばかりではありませんよ。」
「はい。」
「この国には、2011年時点で29個の文化遺産と、8つの自然遺産、4つの複合遺産が点在していますよ。」
「多いですね。」
「「さすが4000年の歴史を持つ国!」と驚きつつも、納得された方がたくさんいると思われます。」
「そうですね。」
「その世界遺産の内容を調べてみると、想像以上のクオリティでさらに驚くことになると思われますよ。」
「はい。」
「たとえば、中国にはラストエンペラーで有名な故宮・紫禁城や、中国で最も美しいとされる景勝地・九寨溝、中国ならではの音楽ショーが楽しめる麗江古城など、実にバリエーション豊かな世界遺産が眠っていますよ。」
「そうなんだ。」
「中国ならではの音楽ショーが楽しめる麗江古城と言えば、麗江古城(れいこうこじょう)は中華人民共和国雲南省、麗江市の旧市街地。ナシ族によって建設された。ナシ族は8世紀、現在の青海省付近から南下してきたと言われている。南下した当時は磨些詔と呼ばれる小国を建国していたが、唐により蒙舎詔に編入された。その後、近隣のチベット、雲南の少数民族の影響を受け、麗江に独自の景観を作り上げた。これが現在の旧市街である。」
「中国で最も美しいとされる景勝地・九寨溝と言えば、「童話の世界」と称賛された九寨溝景勝地は、中国四川省アバチベット族チャン族自治州羌族自治州の九寨溝中南部に位置し、一段と高くそびえる岷山山脈の奥地にあって、成都市から約400㎞に離れています。景勝地域内には、盤信、彭布、故●(さんずい+圭)、盤亜則査●(さんずい+圭)、黒角寨、樹正、●(くさかんむり+河)葉、扎如など9つのチベット族の村があるので、この名称が付けられました。標高は2000-3100mで、高山深谷炭酸塩地形及び地域に属し、気候は穏やかで心地よくて、冬は寒風もなく、夏は爽やかで涼しいです。年間を通しての四季は美しく、世界中で旅行環境が最高の景勝地の1つです。」
「ラストエンペラーと言えば、『ラストエンペラー』(The Last Emperor)は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)の生涯を描いた歴史映画である。溥儀の自伝である『わが半生』を原作としてベルナルド・ベルトルッチが監督、脚本を兼任した。」
「ラストエンペラーで有名な故宮・紫禁城と言えば、紫禁城(しきんじょう)または故宮(こきゅう)は、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧王宮である歴史的建造物である。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。面積は 725,000平方m あり、世界最大の宮殿の遺構]である。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院 中国北京市)になっている。元がつくったものを明の成祖永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京へ都を遷してから、清朝滅亡まで宮殿として使われた。」
「政治に関心のある方は必見の、天安門広場などもありますね。」
「はい。」
「天安門広場と言えば、天安門広場(てんあんもんひろば)は、中華人民共和国北京市の故宮天安門に隣接する広場である。南北880m・東西500mにわたる世界最大の広場。敷石は花崗岩である。北は北京随一の大通りである長安街が位置し、その反対側に紫禁城(故宮)の入口である天安門が位置する。」
「この国の世界遺産をチェックすれば、どんな人でも必ず一つは、自分の行きたいと思う世界遺産が見つかる筈ですよ。」
「はい。」
「この記事の情報だけを見ていると、「こんなに世界遺産を有しているということは、世界遺産を最も保有している国は中国なのだろうなあ」と、思われるかも知れませんね。」
「そんなことはありません。」
「実は、世界で最も世界遺産を保有している国は、中国ではなく「イタリア」ですよ。」
「そうですね。」
「イタリアには、非常に豊富な数の世界遺産がありますよ。」
「はい。」
「中国の何分の一の広さであるにも拘わらず、世界遺産の保有数においてはナンバーワンを維持していますね。」
「はい。」
「二位はどの国かというと、これもまた中国ではなく、「スペイン」であり、中国は今の所、保有数三位という結果ですよ。」
「そうなんだ。」
「三位と言うだけでも、素晴らしい数字ですね。」
「はい。」
「しかし、世界遺産は、数ではなく中身のクオリティですよ。」
「そうだと思います。」
「もしかすると、クオリティだけを見れば、万里の長城やピラミッドあたりがナンバーワンに来るかも知れませんね。」
「はい。」
「この国の世界遺産は至る所にありますよ。」
「そうなんですか。」
「一日でいくつもの場所を回ることは、ほぼ不可能ですよ。」
「そうなんだ。」
「万里の長城にしても、一日でようやく観光できる場所ですよ。」
「はい。」
「中国へ観光に行かれる場合は、自分が一番関心を持てる世界遺産に限定して観光されることをおススメします。」
「わかりました。」
「万里の長城のような人の手によって造られた遺産(文化遺産)も良いですよ。」
「はい。」
「しかし、中国には他の国ではまず見られない、美しい自然遺産も豊富に存在しますよ。」
「そうなんだ。」
「「中国って、空気の汚いイメージだからあんまり期待できないかも…」という方も、この国の自然遺産を見ると、恐らく「別天地」や「桃源郷」と言った言葉が脳裏をよぎる筈ですよ。」
「そうなんですか。」
「「桃源郷」と言えば、桃源郷(とうげんきょう)は、俗界を離れた他界・仙境である。ユートピアとは似て非なる、正反対のもの。武陵桃源(ぶりょうとうげん)ともいう。陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している)。」
「環境汚染が進んでいるイメージは、もちろんありますよ。」
「はい。」
「この国には物凄く汚いものがある代わりに、物凄く綺麗なものもたくさんありますよ。」
「はい。」
「食わず嫌いしていると、非常にもったいないと思われますよ。」
「そうですね。」
「「中国は汚い所」と考えている人は、是非中国の自然遺産の写真を探してください。」
「はい。」
「YouTubeなどを検索すると、その地域の様子を収めた美しい映像が見つかることもあるので、気になる方はそちらもチェックしてみましょう。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と歴史~万里の長城~
「中国は、素晴らしい世界遺産、自然遺産に恵まれた地域ですね。」
「はい。」
「中でも「万里の長城」は、アジアに限らず世界各国から観光客が訪れる絶好の観光スポットになっていますね。」
「はい。」
「世界の七不思議の中の一つの中国の「万里の長城」と言えば、万里の長城は、中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。秦の始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。」
「しかし、いざ万里の長城へ行こうと思っても、「どうやって観光するの?」と、首を傾げてしまう人が多いのではないでしょうか。」
「そうなんですか。」
「この記事では、世界有数の世界遺産、万里の長城の観光の仕方をざっくりご紹介します。」
「お願いします。」
「万里の長城は、中国北部エリアに属する「北京」にありますね。」
「はい。」
「北京と言えば、北京市(ペキンし、中国語: 北京市、英語: Beijing/Peking(ウェード式))は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「この世界遺産は、元々北からの侵入を防ぐ為に造られた外壁ですよ。」
「はい。」
「騎馬隊の攻撃を完全封鎖する為の巨城として、機能していた建造物でしたよ。」
「そうなんだ。」
「その大部分は、明代という時代に完成しましたよ。」
「はい。」
「明代という時代と言えば、唐代は皇帝の下に中書省、門下省、尚書省とあって、その 下に六部がありましたが、明代には最後に残っていた中書省もなくした。皇帝の権限が強化されたということです。皇帝の権限を制約する機関は存在しません。こういう統治機構を中国史では皇帝独裁という。」
「その後も、工事が続いたり補修されたりと、長期に渡って築造が続いていきますよ。」
「はい。」
「そして、現在のような姿となりましたよ。」
「そうなんだ。」
「あまりにも長い為、端から端まで横断するのはまず無理ですね。」
「はい。」
「この世界遺産に行こうと考える人の多くは、そこまで巨大であるとは知らず、「よし、じゃあ端から端まで横断しよう」などと考えがちですね。」
「そうなんですか。」
「基本的には、「要所要所にある見学ポイントの中から横断したい場所を選ぶ」という形式になっていますよ。」
「はい。」
「「断片的に横断する」と言うことになりますね。」
「はい。」
「北京からスムーズにアクセスできる「八達嶺長城(はったつれいちょうじょう)」という世界遺産が最も利用しやすいですよ。」
「そうなんですか。」
「八達嶺長城(はったつれいちょうじょう)と言えば、八達嶺長城(はったつれいちょうじょう)は、中華人民共和国北京市の北西部延慶県(えんけいけん)に位置する長城である。世界遺産・万里の長城の訪問可能な地点のうち、もっとも早く観光地として一般公開された場所である。現在の遺構は明代に建設されたものである。」
「初めてでどうすればいいか分からないという場合は、とりあえずこの八達嶺長城(はったつれいちょうじょう)を選んでおけば間違いありませんね。」
「はい。」
「八達嶺長城は、数あるポイントの中で最も観光客が集まるポイントですよ。」
「そうなんだ。」
「安心して渡れる筈ですよ。」
「はい。」
「しかし、この八達嶺長城を渡るのであれば、気をつけなければならないポイントが三つありますよ。」
「それは何ですか?」
「一つ目は水を用意しておくこと、二つ目は男坂と女坂の選択ミスをしないこと、三つ目は動きやすい服装で参加することですね。」
「わかりました。」
「八達嶺長城の女坂と言えば、八達嶺は明の時代に改修されたものです。ルートは2つで左手に進むと坂の勾配が急な男坂があり、右手に進むと歩きやすい女坂があります。日本の旅行会社やガイドブックは便宜的に北側の長城を「女坂」、 南側を「男坂」と称し、現地日本語ガイドもその紹介を用いることがある。」
「八達嶺長城の男坂と言えば、八達嶺は明の時代に改修されたものです。ルートは2つで左手に進むと坂の勾配が急な男坂があり、右手に進むと歩きやすい女坂があります。日本の旅行会社やガイドブックは便宜的に北側の長城を「女坂」、 南側を「男坂」と称し、現地日本語ガイドもその紹介を用いることがある。」
「一つ目と三つ目は、当たり前かも知れませんね。」
「はい。」
「二つ目は意外と失敗しやすいポイントなので、しっかり確認しておきましょう。」
「どういうことですか。」
「八達嶺長城に用意された男坂と女坂は、標高に大きな差がありますよ。」
「そうなんですか。」
「どうしても、男坂の方から見える世界遺産の方が美しく荘厳ですよ。」
「そうなんだ。」
「女坂を選んでしまうと、そのような景色はまず見られませんよ。」
「はい。」
「「ちょっと辛くてもいいから、美しい景観を眺めたい」という女性は、頑張って男坂に挑戦してみましょう。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と歴史~明・清王朝の皇帝墓群~
「数多い中国の世界遺産の中で、中国各地に点在しているのが、「明・清王朝の皇帝墓群」ですよ。」
「はい。」
「清王朝と言えば、清(しん)は、清朝(しんちょう)、清国(しんこく)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満州族の愛新覚羅(アイシンギョロ氏)が建てた王朝である。17世紀初頭に明の支配下で、満州に住む女直(以下「女真族」)の統一を進めたヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。」
「最初に世界遺産登録がされたのは、2000年のことですよ。」
「はい。」
「この時は、清王朝9人の皇帝陵墓が登録されるに留まり、その場所も全国各地に点在していましたよ。」
「そうなんだ。」
「陵墓と言えば、陵墓は、君主の墳墓をいう。文献では《史記》趙世家、粛侯15年(前335)の条に〈寿陵を起こす〉とあるのが初めてで、戦国中期、国君が生前にみずからの墓をつくり、それを〈陵〉と称したことを記す。」
「そのため、世界遺産という観光の目玉であるにも関わらず、観光収入源には結びつかなかったようですよ。」
「はい。」
「しかし、2003年に追加登録された「明の十三陵」が北京郊外に位置し、あの「万里の長城」にも比較的近いことから、皇帝墓群を目当てにした観光客が急増しましたよ。」
「そうなんですか。」
「「明の十三陵」と言えば、明の十三陵(みんのじゅうさんりょう)とは、中国の北京市昌平区天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓群である。成祖永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。このうち定陵は発掘され内部は地下宮殿として公開されている。世界遺産「明・清王朝の皇帝墓群」の一部である。」
「北京と言えば、北京市(ペキンし、中国語: 北京市、英語: Beijing/Peking(ウェード式))は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「世界の七不思議の中の一つの中国の「万里の長城」と言えば、万里の長城は、中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。秦の始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。」
「その後2004年にも、王朝の墓群には、後金(清の前身)皇帝ヌルハチの陵墓などが加わり、合計25人の皇帝墓群として、この世界遺産は知られるようになりましたよ。」
「はい。」
「後金(清の前身)と言えば、後金(こうきん)は、17世紀前半に満州に興った満州人(女真人)の国家で、清の前身。1588年までに女真の建州女直を統一し、マンジュ国(満洲語manju gurun, 満洲国)を建てていたアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏のヌルハチ(努爾哈赤)は、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ部族を除く全真を統一して、この年ハンの位につき、天命の年号を立てて明からの独立を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(興京)に置かれた。」
「明・清は、1300年代~1900年代の、中国ほぼ全土を支配した大帝国ですね。」
「はい。」
「同時に、清は中国にとって最後の王朝ですね。」
「そうですね。」
「王朝時代の中国を象徴する様々な遺跡も混在していますよ。」
「そうなんだ。」
「したがって、中国における「王朝」とは一体何だったのか、それを知る手がかりが、この皇帝墓群には恐らく沢山隠されているでしょう。」
「そうなんですか。」
「「様々な遺跡が混在する」と書きました。」
「はい。」
「明・清王朝時代には、各皇帝が建築物に多額を費やしましたよ。」
「はい。」
「その中で造られた数々の彫刻、地下宮殿、それを取り巻くその他の様々な造形物はどれも見事な美しさで、観光客を魅了していると言いますね。」
「そうなんですか。」
「したがって、時間をかけてでも、全ての皇帝墓群を回ることには大きな価値があると言えるでしょう。」
「はい。」
「勿論、中国は世界第3位の国土を誇り、その中で墓群が全国各地に点在するとなれば、一度の訪問で全てを回るのは不可能に等しいことですね。」
「はい。」
「したがって、観光客は、各地にある皇帝墓群のうち1箇所ないしは2箇所を訪れるのが限界かも知れませんね。」
「そうですね。」
「この皇帝墓群の中で、最も立地的に訪問しやすく、観光客が多く訪れるのは、前述の「明の十三陵」ですね。」
「はい。」
「そして、この陵墓群がある北京は、現・中華人民共和国の首都でもありますね。」
「はい。」
「その他の観光スポットを訪れるにも好都合ですよ。」
「そうですね。」
「そのため、特に人が集まってくるようですよ。」
「そうなんだ。」
「この十三陵は、全国にある皇帝墓群の中でも最大の広さを誇ることで知られていますよ。」
「そうなんですか。」
「明王朝を建国した朱元璋(後の洪武帝)は、生前から自分の陵墓を建築し始めましたよ。」
「はい。」
「明王朝を建国した朱元璋(後の洪武帝)と言えば、朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅこうそう)と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。元末の天暦元年(1328年)、濠州の鐘離(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の家の末子に生まれる。」
「明王朝と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である。」
「その陵墓は、南京市の紫金山にありますよ。」
「はい。」
「南京市と言えば、南京市(なんきんし、中国語: 南京市、英語: Nanjing)は、中華人民共和国の副省級市で、江蘇省の省都である。古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。中国四大古都の一つ。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。2010年の都市的地域の人口は355万人であり、世界第92位である。金陵は南京の別名である。また清朝のころには江寧と呼ばれたことから略称は「寧」である。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。」
「南京市の紫金山と言えば、紫金山(しきんさん)は中華人民共和国江蘇省南京市北東部に位置する山である。旧名は、鍾山、蒋山(しょうざん)。中山陵(ちゅうざんりょう)、明孝陵(みんこうりょう)、霊谷寺(れいこくじ)などの観光地が位置する。紫金山には全長2350メートルの観光リフトが設置され、リフトからは明孝陵、中山陵、霊谷寺を見ることができる。徒歩で山頂に向かう場合は紫金山東西の麓を起点とする山道を利用する。山頂は山頂公園として整備されており、山頂からは南京市内が一望できる。」
「一方、清を建国したヌルハチ皇帝の陵墓・福陵は、遼寧省藩陽市にあり、互いに少し離れた位置関係にありますよ。」
「そうなんだ。」
「遼寧省と言えば、遼寧省(りょうねいしょう/リヤオニンしょう、liao ning sheng、英語:Liaoning)は、中華人民共和国東北部(満州)に位置する省である。省都は瀋陽、他の主要都市として大連がある。旧称は盛京省、後に奉天省。北東部を吉林省、北部を内モンゴル自治区、西部を河北省と接す。また南西部は遼東半島を境に海域が分かれる黄海と渤海に面し、南東部は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する。」
「遼寧省藩陽市と言えば、瀋陽市(しんようし/シェンヤンし、中国語:沈●(こざとへん+日)市、英語:Shenyang)は、中華人民共和国遼寧省の省都である。欧米諸語では、ムクデン(Mukden)の名もよく用いられる。中国東北部(満州)の主要都市の一つ。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる渾河(こんが)の古名・瀋水の北に位置することから由来した。国家歴史文化名城に指定される観光都市でもある。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。都市人口は810万人と東北地方最大の都市である(2011年まで)。」
「清を建国したヌルハチ皇帝の陵墓・福陵と言えば、明王朝を建国した朱元璋(後の洪武帝)の陵墓は、南京市の紫金山にあります。一方、清を建国したヌルハチ皇帝の陵墓・福陵は、遼寧省藩陽市にあり、互いに少し離れた位置関係にあります。いずれの陵墓も中国東部に位置し、また現中国の首都・北京も国土の中では東部に位置するので、そういう意味では、中国史の重要な都市は、東に集中していると言えるでしょう。」
「しかし、いずれの陵墓も中国東部に位置していますね。」
「はい。」
「現中国の首都・北京も国土の中では東部に位置していますね。」
「はい。」
「そういう意味では、中国史の重要な都市は、東に集中していると言えるでしょう。」
「そうですね。」
「このことを足がかりに、「明・清王朝の皇帝墓群」を東から西に駆け抜ける旅に出かけてみるのも、旅の形の一つとして、浪漫に満ちていて大変魅力的と思いますよ。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と歴史~高句麗前期の都城と古墳~
「中国は世界遺産大国ですね。」
「はい。」
「その中の一つに挙げられる「高句麗前期の都城と古墳」は、2004年に世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「高句麗と言えば、高句麗(こうくり、紀元前37年 -668年。高句麗語:高句麗)は、いまの中国東北部南部から朝鮮北中部にあったツングース系民族の国家であり、最盛期は満州南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋、唐を始めとする中国からの侵攻を度々撃退したが、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と読むが、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。」
「高句麗は、紀元前後の時期に、中国から朝鮮半島一帯を支配する大国でしたね。」
「そうなんだ。」
「高句麗が滅亡したのは、都が現北朝鮮の首都・平壌の時でしたよ。」
「はい。」
「北朝鮮の首都「平壌」と言えば、平壌(ピョンヤン)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首都、直轄市であり、最大の都市である。朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては、道に属さず平壌直轄市として道級の直轄市となっている。日本語読みでは「へいじょう」(字音仮名遣で「へいじやう」)と呼ぶ。日本統治時代の行政区分は平壌府(へいじょうふ)。」
「したがって、高句麗の世界遺産に登録された部分は、中国と北朝鮮に分かれていますよ。」
「そうなんですか。」
「「高句麗前期の都城と古墳」は中国、「後期の古墳群」は北朝鮮という別々の国で登録されていますよ。」
「はい。」
「このような、国をまたぐ世界遺産の登録のされ方は、世界的に見ても、数えるほどの例しかないでしょう。」
「そうですね。」
「ピレネー山脈にある「モン・ペルデュ」は、フランスとスペインで世界遺産登録がされていますね。」
「はい。」
「ピレネー山脈と言えば、ピレネー山脈は、フランスとスペインの国境が走る褶曲山脈である。ヨーロッパ大陸とイベリア半島を分ける山脈でもある。山脈はほぼ東西方向に延び、長さ430km、幅は定義にもよるが100km程度である。山脈の中央東寄りの位置にはミニ国家であるアンドラ公国がある。」
「ピレネー山脈にある「モン・ペルデュ」と言えば、モン・ペルデュは、フランスとスペインの国境に近い、ピレネー山脈のスペイン側斜面の山頂の名前である。山頂の標高は3352mで、これはピレネー山脈の山としては三番目に高く、石灰質の山としてはヨーロッパ最高峰を誇る。「モン・ペルデュ」はフランス語名称で、スペイン語では「モンテ・ペルディード」。ともに「孤立した山」の意味である。日本では「ペルデュ山」「ペルディド山」などとも表記される。」
「北朝鮮では、この「高句麗後期の古墳群」が、国として初めて認定された世界遺産ですよ。」
「そうなんですか。」
「話を中国部分「前期の都城と古墳」に戻しましょう。」
「お願いします。」
「まず高句麗が建国されたのは、紀元前37年頃と言われていますね。」
「はい。」
「建国したのは、王族の朱蒙(中国読み:チュムン)ですね。」
「はい。」
「高句麗を建国した王族の朱蒙(中国読み:チュムン)と言えば、高句麗が建国されたのは、紀元前37年頃と言われています。建国したのは、王族の朱蒙(中国読み:チュムン)です。朱蒙が紀元前37年に「高句麗」を建国し、都を五女山城としました。その後、紀元後3年に丸都山に遷都、更に山から下りてきて、国内城を構えましたが、「丸都山城」として世界遺産登録がされたのは、この国内城のある山のふもとから山城に至る一帯全てです。」
「朱蒙が紀元前37年に「高句麗」を建国し、都を五女山城としましたよ。」
「そうなんだ。」
「高句麗の都の「五女山城」と言えば、最初の王都とみられる桓仁(かんじん)地方には、典型的な高句麗山城である五女山城と、桓仁の東15kmの高力墓子村の高句麗墓群とが知られている。五女山城は、通化に通ずる陸路と渾河の水路を扼する交通の要衝にあり、三方が高い山や絶壁で囲われ、二つ以上の谷間をとりこみ、南方だけが緩斜面になっている地形(栲●(きへん+老)(こうろ)峰)に山城を作っている。」
「その後、紀元後3年に丸都山に遷都しましたよ。」
「はい。」
「高句麗の都が「五女山城」から遷都した先の「丸都山」と言えば、集安の中心、国内城から通溝河を北に2.5キロほど遡った丸都山の麓にある。国内城が平時の平城に対して、丸都山城は戦時の避難場所である。桓仁の五女山城以来の、高句麗の城の配置である。五女山城は天然の要害で城壁は必要なかった。」
「更に山から下りてきて、国内城を構えましたよ。」
「はい。」
「国内城と言えば、高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移った時期は、2世紀末から3世紀初めと見られている。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島の城でよく見られる。国内城は最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。」
「「丸都山城」として世界遺産登録がされたのは、この国内城のある山のふもとから山城に至る一帯全てですよ。」
「そうなんだ。」
「高句麗は、その後平壌に遷都していますよ。」
「はい。」
「「高句麗前期の都城」と言われるのは、建国時の五女山城と丸都山城、そして、国内城と言うことになりますよ。」
「はい。」
「一方、高句麗の世界遺産に登録された古墳は、高句麗王族と将軍塚古墳で合計14基、高句麗貴族の古墳26基で、合計40基ですよ。」
「いろいろありますね。」
「その中には、長寿王のものと思われる古墳もありますよ。」
「はい。」
「長寿王と言えば、長寿王(ちょうじゅおう、394年 - 491年)は、高句麗の第20代の国王(在位:413年 - 491年)である。姓は高、諱(いみな)は巨連。『魏書』などには「璉」の名で現れる。先代の好太王の長子であり、409年に太子に立てられ、413年に先王の死により後を継いで即位する。」
「長寿王は、紀元前後という時代に、何と98歳という寿命をもって死去しましたよ。」
「そうなんですか。」
「そのため、そのような呼び名になったと言われていますよ。」
「はい。」
「そして、長寿であるだけでなく、413年に第20代高句麗王に即位してから、物凄い勢いで朝鮮半島にまで領土を拡大させましたよ。」
「はい。」
「「高句麗全盛期を築いた王」としても知られていますよ。」
「そうなんだ。」
「長寿王が没した場所について、実は具体的な記述は残されておりませんよ。」
「そうなんですか。」
「ただ、世界遺産に登録されている古墳の一つが、「長寿王の古墳」とされていますよ。」
「はい。」
「それは、種々の調査により、その可能性が高いと推測されますよ。」
「そうなんだ。」
「世界遺産の中国側で登録されている「高句麗前期の都城と古墳」の面積は、都城の遺跡3箇所と古墳40基からなる合計4,165ヘクタールですよ。」
「はい。」
「東京ドームが約4.7ヘクタールですから、その1000個分弱の敷地ということになりますよ。」
「広いですね。」
「中国の部分だけを見ても、いかにこの世界遺産が広大なものであるかが、おわかり頂けることでしょう。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と歴史~三清山国立公園~
「三清山国立公園は、江西省北東部、上饒市玉山県と徳興市の境にある自然公園ですよ。」
「はい。」
「徳興市と言えば、徳興市(とくこう-し)は、中華人民共和国江西省上饒市に位置する県級市である。楽安河が流れる。」
「上饒市と言えば、上饒市(じょうじょう-し)は、中華人民共和国江西省に位置する地級市である。江西省の北東部に位置し、景徳鎮市、九江市、南昌市、撫州市、鷹潭市(ようたん-し)、安徽省、浙江省、福建省に接する。」
「上饒市玉山県と言えば、玉山県(ぎょくざん-けん)は、中華人民共和国江西省上饒市に位置する県である。」
「江西省と言えば、江西省(こうせいしょう、中国語:江西省、英語:Jiangxi)は中華人民共和国中部、長江南岸に位置する内陸部の省である。省都は南昌市。中国中部(華中)の内陸部に位置し、北は湖北省、安徽省、東は浙江省、福建省、南は広東省、西は湖南省と接する。」
「三清山国立公園と言えば、三清山国立公園は、2008年に登録された世界遺産(自然遺産)である。中国南西部の江西省、上海の南西約480kmの位置にある中国を代表する景勝地の一つで、古くから道教の聖地として有名である。ここは1988年に、中国政府により国家重点風景名勝区に指定された。この国立公園の名前になっている三清山は、玉京峰、玉華峰、玉虚峰を指す(最高峰は標高1816.9mの玉京峰)。この3つの峰は、道教の始祖玉清、上清、太清が頂上に座る姿に見立てられた。これが三清山の名前の由来でもある。この一帯の地形は、ヒマラヤ造山活動の末期に形成されたもので、10億年前の地層が残っている。」
「2008年に、世界自然遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「中国の世界自然遺産登録としては、これが7か所目ですね。」
「そうなんだ。」
「登録申請後、僅か3年という異例のスピードでの登録となりましたよ。」
「はい。」
「三清山を形成するのは、玉京峰、玉虚峰、そして玉華峰ですよ。」
「はい。」
「三清山の玉華峰と言えば、三清山の面積は220k㎡で、主峰の玉京峰は海抜1819.9mである。その山は玉京¬峰、玉華峰、玉虚峰の3峰からなり、中国道教の3大神である玉清境洞真教主・元始天尊¬、上清境洞玄教主・霊宝天尊、太清境洞神教主・道徳天尊は肩を並べて座るようだから、¬その名が付けられたという。」
「三清山の玉虚峰と言えば、三清山の面積は220k㎡で、主峰の玉京峰は海抜1819.9mである。その山は玉京¬峰、玉華峰、玉虚峰の3峰からなり、中国道教の3大神である玉清境洞真教主・元始天尊¬、上清境洞玄教主・霊宝天尊、太清境洞神教主・道徳天尊は肩を並べて座るようだから、¬その名が付けられたという。」
「三清山の玉京峰と言えば、玉京峰は、三清山の玉京峰エリアに位置し、標高1817メートル、三清山の最高峰です。玉京峰の頂上は、日の出、雲海を観賞する絶好の場所です。」
「三清山と言えば、三清山(さんせいざん)は、江西省上饒市玉山県と徳興市の境界に位置し、玉山県の中心から約50キロメートル、上饒市から約78キロメートルに位置し、懐玉山脈にある。道教の名山であり、風景は秀麗である。三清山の名前は、「三峰(玉京、玉虚、玉華の三峰)の様子が高く険しく、まるで、三清が頂上に座っているかのようだ(三峰峻抜、如三清列坐其巓)」に由来する。三峰の中では、玉京峰が最も高く、海抜1819.9メートルである。2008年にユネスコの世界遺産に登録された。」
「この三峰の様が、道教の三清(元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊)に例えられたことから、後に「三清山」と呼ばれるようになりましたよ。」
「そうなんだ。」
「道教の三清の中の一つの道徳天尊と言えば、太上老君(たいじょうろうくん、だじょうろうくん)は、別名道徳天尊(どうとくてんそん)、混元老君(こんげんろうくん)、降生天尊(ごうせいてんそん、こうせいてんそん)、太清大帝(たいせいたいてい)とも言う道教の神である。道教の始祖とみなされる老子が神格化されたもので、道教の最高神格である三清の一。元始天尊の応身の神格とされ、あるいは、その十号の一つに数えられる。」
「道教の三清の中の一つの霊宝天尊と言えば、三清境のひとつである上清境の教主とされている道教の神。霊宝君、太上道君ともいう。三清の残りの二つは、元始天尊と太上老君(老子)なので、神としての地位は非常に高い。」
「道教の三清の中の一つの元始天尊と言えば、元始天尊(げんしてんそん)とは、「太元」を神格化した道教神学中の最高神である。また、霊宝天尊(太上道君)、道徳天尊(太上老君)と並ぶ三精の一柱。『隋書』「経籍志」によると元始天尊は太元、即ち全ての物事よりも先に誕生した常住不滅の存在であり、天地再生の際に人々に道を説いて救済を与えるという(開劫度人)。また『雲笈七籤』の巻二では、万物の始めであり「道」の本質であるとされ、同巻三によると大羅天の玄都にある玉京に住むという。」
「道教の三清と言えば、三清(さんせい)は、道教の最高神格のことである。「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱。それぞれ道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ。道観(道教寺院)にはしばしば「三清殿」と称する三清を祀る建物がある。」
「道教と言えば、道教は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。」
「三清山が中国全土で広く知られるようになるきっかけを作ったのは、葛洪(かっこう)という東晋時代の人ですよ。」
「そうなんですか。」
「東晋時代と言えば、東晋(とうしん)は、中国の西晋王朝が劉 淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。」
「葛洪(かっこう)という東晋時代の人と言えば、葛洪(かっこう)は、《抱朴子(ほうぼくし)》《神仙伝》の著者である。神仙家。字は稚川。葛氏は後漢初期に琅邪(ろうや)郡(山東省東部)から丹陽句容(江蘇省句容県)に移住した中小豪族。祖父と父は呉に仕え、葛洪が生まれたのは呉が晋によって滅ぼされた2年後のこと。亡国の民の子孫であり、また中原ならざる江南の民であることの自覚が、非日常的な神仙道の修業にうちこませることとなった。若くして鄭隠に師事、左慈・葛玄(洪のおおおじ)・鄭隠と伝えられた道教経典と神仙道にかんする口訣を授けられた。」
「葛洪は、貧乏な家庭に生まれ、外見も悪く、更に病弱という欠点だらけでしたよ。」
「はい。」
「それ故、出世を諦めましたよ。」
「はい。」
「その代わりに、煉丹術(霊薬を作る技術)などの神仙術を学びましたよ。」
「そうなんだ。」
「神仙術と言えば、神仙術は、養生・錬丹・方術といったいわゆる神仙術により神人・仙人になることを目指す思想である。その究極の目的は不老長生であり、それゆえのちに道教の中心的思想となった。神仙思想が山と結びつけられる理由は、気に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、鉱物や薬草が豊富であったことであると考えられる。」
「霊薬と言えば、霊薬(れいやく)とは、飲食すれば不老不死となるといわれた宗教上の薬である。神話の神などが食べたり飲用したりするものとされる。後に錬金術(練丹術)においては実際に作成可能として研究の主目的物質であった。」
「煉丹術(霊薬を作る技術)と言えば、錬丹術(れんたんじゅつ)は、中国の道士の術の一つである。服用すると不老不死の仙人になれる霊薬(仙丹)をつくる。煉丹術は中国古代の神仙思想より発展した道教の長生術の一部をなす。広義の煉丹術は外丹と内丹に分かれるが、学術的文脈においては煉丹術といえば一般に「外丹」のほうを指す。外丹においては丹砂(硫化水銀)を主原料とする「神丹」「金丹」「大丹」「還丹」などと称される丹薬や、金を液状にした「金液」が服用された。」
「後に、それを書に記しましたよ。」
「はい。」
「この書物が、後に道教における名作となり、それと同時に、葛洪が霊薬を作っていたとされる三清山も有名になりましたよ。」
「はい。」
「葛洪(かっこう)という東晋時代の人と言えば、葛洪(かっこう)は、《抱朴子(ほうぼくし)》《神仙伝》の著者である。神仙家。字は稚川。葛氏は後漢初期に琅邪(ろうや)郡(山東省東部)から丹陽句容(江蘇省句容県)に移住した中小豪族。祖父と父は呉に仕え、葛洪が生まれたのは呉が晋によって滅ぼされた2年後のこと。亡国の民の子孫であり、また中原ならざる江南の民であることの自覚が、非日常的な神仙道の修業にうちこませることとなった。若くして鄭隠に師事、左慈・葛玄(洪のおおおじ)・鄭隠と伝えられた道教経典と神仙道にかんする口訣を授けられた。」
「こうして葛洪により、三清山は、道教の聖地としても知られるようになりましたよ。」
「そうなんだ。」
「その歴史は、東晋時代(317~420年)から数えると、実に1600年にもなりますよ。」
「はい。」
「三清山は、単に「葛洪が住んでいたところ」「道教の聖地」というだけではありませんよ。」
「はい。」
「その自然が織りなす景観もまた大変素晴らしく、その点においても、世界遺産と呼ぶに値しますよ。」
「そうなんですか。」
「特に、雲海がかかった時に見せる三峰の光景は、まるで本当に仙人が現れてきそうな雰囲気で、まさに幻想的ですよ。」
「はい。」
「三清山は岩山で、花崗岩(石材では「御影石」と呼ばれる)によって造られていますよ。」
「はい。」
「花崗岩(石材では「御影石」と呼ばれる)と言えば、花崗岩(かこうがん、英: granite)とは、火成岩の一種である。流紋岩に対応する成分の深成岩である。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれる。」
「その黒砂がかったような独特の岩石は、多種多様な形で山の至る所にありますよ。」
「そうなんだ。」
「世界自然遺産として認定されている部分の面積は、22950ヘクタールですよ。」
「広いですね。」
「その9割を自然が占めていますよ。」
「はい。」
「三清山では、様々な緑や花などの光景も季節ごとに堪能できますよ。」
「はい。」
「その植物の種類は、1,000以上にもなると言うことですよ。」
「多いですね。」
「それだけではなく、道教のゆかりの地ということもあり、道教の古建築も多く見られ、文化遺産的な楽しみ方もできるでしょう。」
「わかりました。」
「このように、三清山国立公園は、花崗岩からなる様々な峰の表情で人々を魅了し、多くの植物が作る光景により、人々に癒しを与える場所でもありますよ。」
「はい。」
「更に、道教における神秘も沢山詰まっていますよ。」
「はい。」
「中国の人々にとって、特別な場所であることは言うまでもありませんね。」
「そうなんだ。」
「一度三清山に足を運べば、それは二度とできない、壮大な体験になることは間違いありませんよ。」
「はい。」
「現在では山のあちこちにホテルが建てられ、観光客の受け入れ体制も整えられていますよ。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と歴史~泰山~
「中国では、聖なる山々と呼ばれる「五岳」がありますね。」
「そうなんですか。」
「聖なる山々と呼ばれる「五岳」と言えば、五岳(ごがく)は、中国の道教の聖地である5つの山の総称である。五名山とも呼ばれる。陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。東岳泰山、南岳衡山、中岳嵩山、西岳華山、北岳恒山である。神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。この五岳を象徴図形にしたものが五岳真形図(「五嶽眞形圖」)である。」
「その中でも、最も尊い山とされているのが、泰山ですよ。」
「はい。」
「最も尊い山とされている「泰山」と言えば、泰山(たいざん)は、中華人民共和国山東省泰安市にある山である。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。封禅の儀式が行われる山として名高い。道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつ。五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも尊いとされる。ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。また「泰山国家地質公園」としてジオパークにも指定されており、ユネスコの世界ジオパークネットワークにより認定されている。」
「世界遺産として登録されたのは、1987年のことですよ。」
「はい。」
「文化遺産(石碑や宮殿などの遺跡部分)と自然遺産からなる、世界複合遺産ですよ。」
「そうなんですか。」
「標高は1,545mで、泰安、済南、歴城、長清に跨るような形で存在していますよ。」
「はい。」
「長清と言えば、清区(ちょうせい-く)は、中華人民共和国山東省済南市に位置する市轄区である。黄河の東側、済南市区から22kmの距離に位置する。」
「歴城と言えば、歴城区(れきじょう-く)は、中華人民共和国山東省済南市に位置する市轄区である。前153年に歴城県が設置される。1987年に市轄区に改編され現在に至る。」
「済南と言えば、済南市(さいなんし/チーナンし、英語:Jinan)は、中華人民共和国山東省に位置する副省級市である。山東省の西部に位置し、省都として省内の通商、政治、文化の中心としての地位を占める。市中を黄河が流れ、南には泰山が控えている。人口のほとんどは漢族であるが、満族や回族なども居住している。」
「泰安と言えば、泰安市(たいあん-し)は、中華人民共和国山東省西部に位置する地級市である。封禅の儀式が行われる山で五岳のひとつ・泰山が位置し、道教・仏教の中心としても多くの文化人や参拝客を集めてきた。人口の98.7%を漢族が占め、他に回族などが居住する。」
「泰山が「最も尊い」と呼ばれるのは、そこが中国三大宗教全ての聖地でもあり、特に道教は、泰山で発祥したとも言われていますよ。」
「そうなんだ。」
「道教と言えば、道教は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。」
「したがって、「泰山=道教の聖地」という呼び方がしばしば使われていますよ。」
「はい。」
「「神の宿る山」と尊ばれていることから、歴代皇帝が泰山を訪れ、儀式を執り行ってきましたよ。」
「はい。」
「皇帝が行う儀式は「封禅」と呼ばれていますよ。」
「そうなんだ。」
「泰山で皇帝が行う儀式である「封禅」と言えば、封禅(ほうぜん)は帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式である。始皇帝以前には72人の帝王がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。その歴史は三皇五帝によって執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。」
「自らの皇帝即位の報告や、天下が平和であることに感謝する儀式などが、泰山で行われてきましたよ。」
「はい。」
「現在も、中国国家元首が泰山を訪れる儀礼が存在するようですよ。」
「そうなんですか。」
「このようないきさつがあり、泰山は中国一般人にとっても特別な山ですよ。」
「はい。」
「「誰もが一度は登ってみたい山」とまで言われていますよ。」
「はい。」
「世界遺産に登録されたこともあり、中国国内だけでなく、その知名度は、一躍世界的なものとなりましたよ。」
「そうなんですか。」
「泰山は、現在では観光客を魅了する中国最大のスポットとして知られていますよ。」
「はい。」
「はるか昔から、三大宗教の僧侶たちは、この山を巡礼し、この山で修行をしてきましたよ。」
「はい。」
「しかし、今ではそのような修道士ばかりでなく、観光客用のルートも積極的に開拓され、ホテルも多く造られ、比較的誰もが行きやすい場所として変化を遂げましたよ。」
「そうなんだ。」
「世界遺産として登録されているものは丁重に守られているので、行ってがっかりと言うことはないでしょう。」
「わかりました。」
「泰山の中腹部までは、車で行くことができますよ。」
「はい。」
「そこからは、歩道をひたすら歩くか、ロープウェイに乗って一気に山頂を目指すか、選ぶことができますよ。」
「はい。」
「中腹から山頂にかけて、階段が設けられていますよ。」
「そうなんだ。」
「その段数は、7,000にもなるそうですよ。」
「段数が多いですね。」
「手軽にロープウェイという手段に人気が集まる一方で、「中国史を体感したい」という人たちの間で、ほぼまっすぐ山頂に伸びる階段も、人気が高くなっていますよ。」
「そうなんだ。」
「階段を登っていると、途中に多くの石碑や社がありますよ。」
「はい。」
「それらを眺めながら一息つくのも、いいものですよ。」
「そうなんだ。」
「その他にも、泰山全体に数々の彫刻、宮殿跡、宮殿の城楼(やぐら)などの遺跡があちこちにありますよ。」
「はい。」
「それらにより多く巡り合うために、ゆっくり過ごしてはいかがでしょうか。」
「わかりました。」
「山頂は、「玉頂」、「玉皇頂」など、様々な呼ばれ方がされていますよ。」
「はい。」
「それは、他の山々と泰山山頂は格が違う、という人々のはっきりした思いがあるからでしょう。」
「そうなんだ。」
「玉頂には、大唐・玄宗皇帝が封禅を行った際の記念碑が建てられていますよ。」
「はい。」
「大唐・玄宗皇帝と言えば、玄宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝である。諱(いみな)は隆基。治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。」
「玉頂からの眺めはまさに絶景ですよ。」
「そうなんですか。」
「このような自然が見せるアトラクションも、多くの観光客を惹きつける要因になっていることは、間違いありませんよ。」
「はい。」
「中国の宗教文化を体感するには、まず泰山を目指すべきと言えるでしょう。」
「わかりました。」
「そして、現在の中国人がどんな思想を持ち、どんな文化を形成してきたのか、それを知る手がかりが掴めるに違いありませんよ。」
「はい。」
中国の世界遺産と歴史~黄山~
「「雲霧の郷」、「天下第一の名山」など、様々な異名を持つ黄山は、世界で29か所しかない、世界複合遺産の一つですよ。」
「そうなんですか。」
「黄山と言えば、黄山(こうざん)は、中国・安徽省にある景勝地である。伝説の仙境(仙人が住む世界)を彷彿とさせる独特の景観から、古代から「黄山を見ずして、山を見たというなかれ」と言われ、数多くの文人が訪れた。黄山の名は伝説上の王、黄帝がこの山で不老不死の霊薬を飲み、仙人になったという言い伝えに基づいている。」
「1990年に、世界遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「この山は、70もの花崗岩峰から出来ていますよ。」
「はい。」
「世界遺産登録地域の面積は、154km2ですよ。」
「そうなんだ。」
「その中には、名勝と呼ばれる景観が400以上もあると言われていますよ。」
「そうなんですか。」
「古くから芸術家を初めとして、多くの人々に愛されてきましたよ。」
「はい。」
「その黄山が見せる名勝は、「黄山を見ずして山を語ることなかれ」という格言まで生み出しましたよ。」
「はい。」
「「黄山」の名の由来は、古代中国にいたとされる伝説上の皇帝、黄帝が、ここで仙人になる修行をしていたという言い伝えにありますよ。」
「そうなんですか。」
「そして何世紀もの時を経て、唐の玄宗皇帝が黄帝に因んで「黄山」と名づけましたよ。」
「はい。」
「大唐・玄宗皇帝と言えば、玄宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝である。諱(いみな)は隆基。治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。」
「黄山は、まさに「東洋の神秘」ですよ。」
「そうなんですか。」
「水墨画は、ここから生まれたと言われていますよ。」
「はい。」
「水墨画と言えば、水墨画(すいぼくが)とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う。中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅竹菊)の水墨画が行われた。」
「黄山は、画家の創造力を駆り立てるに値する幻想的かつ感動的な景観が最大の見所ですよ。」
「はい。」
「その神秘的な魅力を作るのは、雲海や霧などですね。」
「はい。」
「黄山は、山頂に近くなるほど雲や霧に濃く覆われ、それらが、黄山の峰に美しいコントラストを生み出していますよ。」
「そうなんだ。」
「季節や時間によって様々に表情を変える雲海は、どんなに見続けても決して見飽きることはないでしょう。」
「はい。」
「花崗岩でできた峰を雲海が演出するその光景は、水墨画に幾度となく描かれていますね。」
「はい。」
「花崗岩(石材では「御影石」と呼ばれる)と言えば、花崗岩(かこうがん、英: granite)とは、火成岩の一種である。流紋岩に対応する成分の深成岩である。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれる。」
「やがて、日本の画家にも大きな影響を与えることになりましたよ。」
「そうなんだ。」
「決して西洋的な神秘とは交わらない、東洋独特の景観がそこにはありますよ。」
「はい。」
「その景観を演出するように、樹齢100年を越える松が10000株以上植えられていますよ。」
「多いですね。」
「中国三大宗教(仏教、道教、儒教)においても、黄山は非常に重要な場所ですよ。」
「そうなんですか。」
「道教と言えば、道教は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。」
「特に、道教における仙人術を学ぶために、多くの人がこの地に移り住みましたよ。」
「はい。」
「道教における仙人術と言えば、仙人(せんにん)は、中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。羽人、僊人ともいう。道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。仙人は基本的に不老不死だが、自分の死後死体を尸解(しかい)して肉体を消滅させ仙人になる方法がある。これを尸解仙という。仙人になるために修行をする者は「道士」(羽士)「方士」と呼ばれる。後世専ら、道士は道教修行者一般をさした。」
「仏教寺院も数多く存在し、古くから、僧侶たちが修行のために、この山にこもったと言われていますよ。」
「はい。」
「したがって、名勝を眺めるだけでなく、あちこちに点在する史的旧跡などを巡るという楽しみ方もありますよ。」
「はい。」
「ひと昔前まで、黄山を散策することは、雲海や霧などの影響でなかなか難しかったですよ。」
「そうなんだ。」
「それ故、益々神秘的な山として伝説化されてきましたよ。」
「はい。」
「現在では、霧や雲が立ち込める山頂までのルートが確立されていますよ。」
「はい。」
「中国最大規模のロープウェイは、一度に100人以上を収容し山頂まで送り届けてくれますよ。」
「大きいロープウェイですね。」
「黄山には、観光客を受け入れるためのあらゆる施設がありますよ。」
「はい。」
「長時間居ても飽きずに、快適に過ごすことができそうですよ。」
「はい。」
「黄山北側にある九崋山は、中国四大仏教名山の一つで、こちらも併せて足を運んでみてはいかがでしょうか。」
「わかりました。」
「中国四大仏教名山と言えば、中国四大仏教名山(ちゅうごく しだい ぶっきょう めいざん)は、中国で用いられる、四ヶ所の著名な仏教名山・霊山・聖山に対する呼び名である。山西省五台県の五台山、四川省峨眉山市の峨眉山、安徽省青陽県の九華山、浙江省舟山市の普陀山をいう。」
「黄山北側にある中国四大仏教名山の一つの九崋山と言えば、九華山(きゅうかさん)は、中国・安徽省池州市青陽県にある山である。九華山は、中国の仏教で言うところの聖地で、中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)の一つである。地蔵菩薩の霊場とされる。」
中国の世界遺産と歴史~武夷山~
「中国最大の面積を誇る世界遺産であり、ウーロン茶の産地として有名な武夷山は、多くの自然に恵まれた山脈の総称で、福建省に位置しますよ。」
「はい。」
「福建省と言えば、福建省(ふっけんしょう/フーチエンしょう、中国語:福建省、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。」
「ウーロン茶と言えば、烏龍茶(ウーロンちゃ)は、中国茶のうち青茶(せいちゃ、あおちゃ)と分類され、茶葉を発酵途中で加熱して発酵を止め、半発酵させた茶である。中国語でいう「青」は「黒っぽい藍色」を指す。青茶に対して、緑茶は茶葉を摘んだ直後に加熱するため発酵の過程がなく、紅茶は完全に発酵させたものを乾燥させたものである。一説によれば烏龍茶という名前は中国広東省で製茶されたお茶の形状や色が鳥のように黒く、龍のように曲がりくねっているため名付けられたという。」
「武夷山と言えば、武夷山(ぶいさん)は中国・福建省にある黄崗山(2,158m)を中心とする山系の総称である。山水の名勝として有名で、黄山、桂林と並び中国人が人生一度は訪れたいとされる場所の一つとされる。1999年以降ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録。年間350万人の観光客が訪れている。」
「現代に入ってすぐに、この美しい地域は保護するに値するものとされましたよ。」
「はい。」
「1979年には、中国の国家自然保護区に認定されましたよ。」
「そうなんだ。」
「1987年には、ユネスコの「生物圏保護区」に制定されましたよ。」
「はい。」
「1999年には、世界複合遺産として登録されましたよ。」
「そうなんだ。」
「したがって、中国だけでなく、世界中の人々がこの地域を守りたいと願っていたことがわかりますね。」
「はい。」
「その36の峰からなる武夷山には、無数の生命が古代から生息し続けていますよ。」
「そうなんですか。」
「現在確認されている範囲では、植物2,500種類以上、脊椎動物450種類以上、鳥類400種以上、昆虫5,000種以上が生息していますよ。」
「いろいろありますね。」
「武夷山地域は、亜熱帯気候ですよ。」
「はい。」
「そのおかげもあり、多くの生命が長年の営みを続けてこられたのだと思われますよ。」
「はい。」
「武夷山は、「山水の名勝」と呼ばれていますね。」
「そうなんですか。」
「その水を湛えた風景が、古くから多くの人々を魅了してきましたよ。」
「はい。」
「特に、峰々の間を走る九曲渓は、全長約9kmで、川下りのスポットとして知られていますよ。」
「はい。」
「峰々の間を走る九曲渓と言えば、武夷山(ぶいさん)の南側を、九曲渓という清流が、東西に流れています。 山深く流れの 速いところも多いのですが、岩山が林立しているためか、蛇行を繰り返し、合計九つの 曲がり角があることからこの名がつきました。」
「その九曲渓から竹舟に乗り、のんびり過ごしながら見上げると、まさにここが「山水の名勝」であることがはっきりとわかりますよ。」
「そうなんだ。」
「九曲渓から見渡せる風景は、どの場所から見ても一見の価値がありますよ。」
「はい。」
「峰の頂上に登り、そこから九曲渓を見下ろす光景も又、非常に素晴らしく、多くの芸術家や観光客の目を釘付けにしていますよ。」
「はい。」
「大自然に囲まれ、癒されながら、あらゆる角度から名勝を楽しめるというのが、武夷山の魅力ですよ。」
「そうなんですか。」
「そこに長く居るほど、世界遺産たる偉大さを見せ付けられるようですよ。」
「はい。」
「武夷山は、「世界複合遺産」ですよ。」
「はい。」
「その自然遺産部分だけでなく、貴重な史跡が多くあることでも有名ですよ。」
「そうなんですか。」
「朱子学の祖・朱熹は、武夷山で自らの学問を説き、後に「紫陽書院」を建立しましたよ。」
「はい。」
「紫陽書院と言えば、天游峰の近くにある、もう一つ有名なのが朱熹の紫陽書院である。もともとは武夷精舎という名前だったそうですが、現在では武夷書院って書いていました。2004年に作り直したそうです。」
「朱子学と言えば、朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系である。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)と呼ばれた。」
「朱子学の祖・朱熹と言えば、金門島ゆかりの南宋の朱子学の祖、朱熹が朝廷から遠地金門に送られた際、教えを説いた場所(書院)で、国家二級古跡になっています。1780年に建てられた建物ですが、何度も修復されているようで、現在あまり古さは感じませんが、入口の建物は威厳があります。奥に、赤く塗られた朱子祠がありますが、とくに見学できるような展示物はありません。」
「この遺跡は、現在も残っていますよ。」
「はい。」
「その他にも、仏教寺院、石刻などが多くありますよ。」
「そうなんだ。」
「中国が誇る歴史遺産を堪能することができますよ。」
「はい。」
「武夷山は、ウーロン茶の有名な産地でもありますね。」
「はい。」
「武夷山のウーロン茶は、「武夷岩茶」と呼ばれていますよ。」
「そうなんだ。」
「武夷山のウーロン茶「武夷岩茶」と言えば、武夷岩茶(ぶいがんちゃ)は、中国福建省北部の武夷山市で生産される青茶(烏龍茶)の1種である。茶樹が山肌の岩に生育しているためにこの名がある。」
「その質は最高級で、かつては皇帝に献上されていましたよ。」
「はい。」
「峰々から沁み出た良質のミネラルをたっぷり吸い上げた茶樹は栄養が豊富で、かつては健康飲料として皇族が愛飲していましたよ。」
「はい。」
「武夷山中から摂れた茶葉を武夷山の山水で煎じて飲むことは、究極の贅沢だと思いますよ。」
「そうですね。」
「武夷山では、名勝を見ることで目を癒しながら、最高級茶葉を使ったウーロン茶を飲むことで、心と体の癒しも得られますよ。」
「はい。」
「のんびりとした旅をするには最適な所でしょう。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と歴史~殷墟~
「殷墟は、中国最古の王朝・殷の都の遺跡のことですよ。」
「そうなんですか。」
「中国最古の王朝・殷と言えば、殷(いん、ピン音:yin、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。殷代(いんだい、yin dai)とも。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう、shang)、商朝とも呼ばれる。」
「この遺跡は、2006年に中国で33箇所目の世界遺産登録がされましたよ。」
「はい。」
「殷王朝は、19世紀終わり頃までは、その実態を知る遺跡があまり発見されていなかったため、「謎の王朝」とされてきましたよ。」
「そうなんですか。」
「しかし、殷を知る最初の手がかりが、1899年に思わぬ所から発見されましたよ。」
「はい。」
「当時の清王朝に仕えていた官僚が、購入した自分用の薬(甲骨で造られたもの)の中に見慣れない文字を発見しましたよ。」
「はい。」
「(薬用)甲骨と言えば、殷を知る最初の手がかりが、1899年に思わぬところから発見されました。当時の清王朝に仕えていた官僚が、購入した自分用の薬(甲骨で造られたもの)の中に見慣れない文字を発見したのです。その官僚は、直感的に「これは古代文字であるに違いない」と、独自に解読を進めるために、大量の薬用甲骨を買い込みました。やがてその作業が大規模に拡張され、1928年には、本格的に殷の遺跡を発掘するための調査が開始されました。それまでの解読の成果で、殷王朝の都が、現・河南省安陽市にある小屯村にあったことがわかり、その一帯が遺跡発掘の調査対象とされました。」
「清王朝と言えば、清(しん)は、清朝(しんちょう)、清国(しんこく)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満州族の愛新覚羅(アイシンギョロ氏)が建てた王朝である。17世紀初頭に明の支配下で、満州に住む女直(以下「女真族」)の統一を進めたヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。」
「その官僚は、直感的に「これは古代文字であるに違いない」と、独自に解読を進めるために、大量の薬用甲骨を買い込みましたよ。」
「そうなんだ。」
「やがてその作業が大規模に拡張されましたよ。」
「はい。」
「1928年には、本格的に殷の遺跡を発掘するための調査が開始されましたよ。」
「はい。」
「それまでの解読の成果で、殷王朝の都が、現・河南省安陽市にある小屯村にあったことがわかり、その一帯が遺跡発掘の調査対象とされましたよ。」
「そうなんだ。」
「河南省と言えば、河南省(かなんしょう、河南省)は、中華人民共和国の省の1つである。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫洲があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市(ていしゅうし)。約1億もの人口は中国最多である。」
「河南省安陽市と言えば、安陽市(あんようし、中国語:安●(こざとへん+日)市、英語:Anyang)は、中華人民共和国河南省最北部に位置する都市である。中国七大古都(北京、南京、杭州、西安、洛陽、開封、安陽)の一つである。約三千三百年前の商代後期の都で中国古代王朝の一つである殷の時代の遺跡「殷墟」があり、ヒエログリフ、楔形文字と並び世界三大古代文字の一つに数えられる甲骨文字が大量に出土している。」
「河南省安陽市にある小屯村と言えば、殷墟(いんきょ)は、中華人民共和国河南省安陽市に位置する古代中国殷王朝(BC1600 - BC1046)後期の遺構である。河南平野の現在は近代的なビルが林立する安陽市街地に位置している。●(さんずい+亘)水南岸に位置する小屯村北東部が宮殿などが位置する殷都の中心だったと考えられ、周囲からは工房跡なども発掘されている。」
「そして、1968年までに、16万枚の甲骨片、6,000点以上の青銅器、儀式用の方鼎(ほうてい:古代中国の器物のこと)、13の陵墓、700点以上の王器や中国最古の馬車などが発掘されましたよ。」
「はい。」
「甲骨片と言えば、中国社会科学院傘下の研究機関である旅順博物館が所蔵する1700点あまりの未公開の甲骨片から、6個の新しい甲骨文字が見つかった。」
「儀式用の方鼎(ほうてい:古代中国の器物のこと)と言えば、1928年には、本格的に殷の遺跡を発掘するための調査が開始されました。1968年までに、16万枚の甲骨片、6,000点以上の青銅器、儀式用の方鼎(ほうてい:古代中国の器物のこと)、13の陵墓、700点以上の王器や中国最古の馬車などが発掘されました。」
「陵墓と言えば、陵墓は、君主の墳墓をいう。文献では《史記》趙世家、粛侯15年(前335)の条に〈寿陵を起こす〉とあるのが初めてで、戦国中期、国君が生前にみずからの墓をつくり、それを〈陵〉と称したことを記す。」
「この中で、甲骨片の中に刻まれていた文字が、私たちのよく知る「甲骨文字」ですよ。」
「はい。」
「甲骨文字(漢字形成の原型)と言えば、考古学的に現存する最古の漢字は、殷に於いて卜の結果を書き込むための使用された文字である。これを現在甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼ぶ。甲骨文以前にも文字らしきものは存在していたが、これは漢字と系統を同じくするものがあるか定かではない。」
「この文字は、確認されている限り最古の文字ですよ。」
「そうなんですか。」
「後に、漢字形成の原型にもなったものですよ。」
「はい。」
「甲骨片には、合計4,500種類もの文字が使用された卜辞(占いの書)が刻まれていることがわかりましたよ。」
「はい。」
「合計4,500種類もの文字が使用された卜辞(占いの書)と言えば、甲骨片の中に刻まれていた文字が、私たちのよく知る「甲骨文字」というものです。この文字は、確認されている限り最古の文字であり、後に漢字形成の原型にもなったものです。甲骨片には、合計4,500種類もの文字が使用された卜辞(占いの書)が刻まれていることがわかりました。そして、その中で解読されている文字は1,700種類程度、この先も解読が進むものと思われます。もし全てが解読されたら、これは殷王朝を知るための、最大の手がかりになります。」
「その中で解読されている文字は、1,700種類程度ですよ。」
「そうなんだ。」
「この先も、解読が進むものと思われますよ。」
「はい。」
「もし全てが解読されたら、これは殷王朝を知るための、最大の手がかりになりますね。」
「そうなんだ。」
「「殷墟」として、世界遺産登録がされた場所は、現小屯村を中心にした、東西6km、南北4kmの24km2で、小屯村の他にも、その周りを取り巻く幾つかの町村が、遺跡発掘の地として、世界遺産登録の対象になりましたよ。」
「はい。」
「勿論現在では、発掘された場所や物は丁寧に保存されていますよ。」
「はい。」
「「世界遺産登録」という肩書きを得たことで、観光客も激増したと言われていますよ。」
「そうなんだ。」
「ただ、日本では、中国の世界遺産の中で、まだまだその知名度が低い状態ですよ。」
「はい。」
「それ故、日本人観光客はあまりいないようですね。」
「はい。」
「というのは、安陽市と日本を結ぶ直行便がありませんよ。」
「そうなんですか。」
「中国を観光旅行する日本人が、他の大都市に流れてしまうからですね。」
「はい。」
「しかし逆に言うと、そこは日本ではまだまだ未知の世界ですね。」
「はい。」
「多少不便で飛行機の乗り継ぎをしなくてはならないにしても、日本語が全く聴こえてこない場所で、古代中国にどっぷり浸かり、日本人の知らない世界を堪能することには、特別な価値があるように思いますよ。」
「わかりました。」
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