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中国の世界遺産と旅~曲阜の孔廟、孔林、孔府(三孔)・武当山古建築・廬山・蘇州古典園林・安徽省南部の古代集落群・龍門石窟・マカオ歴史地区・中国丹霞~





中国 世界遺産 旅

中国の世界遺産と旅

「中国は、万里の長城や瀋陽の明・清王朝皇宮など、巨大な世界遺産が多く現存している地域ですね。」
「はい。」

「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」

「瀋陽と言えば、瀋陽市は、中華人民共和国遼寧省の省都である。欧米諸語では、ムクデン(Mukden)の名もよく用いられる。中国東北部(満州)の主要都市の一つ。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる運河の古名・瀋水の北に位置することから由来した。国家歴史文化名城に指定される観光都市でもある。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。都市人口は810万人と東北地方最大の都市である(2011年まで)。」

「瀋陽の明・清王朝皇宮と言えば、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮は、中華人民共和国にあるユネスコの世界遺産 (文化遺産)に登録された遺産名である。1987年に登録された北京の故宮博物院は世界最大の皇宮で、明と清の24代にわたる皇帝の宮城であった。また、2004年追加登録された瀋陽の瀋陽故宮は清の前身・後金の皇帝ヌルハチとホンタイジの皇宮ならびに清王朝の離宮であった。」

「万里の長城と言えば、万里の長城は、中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。2009年4月18日の中華人民共和国国家文物局の発表により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmと発表された。現存する人工壁の延長は6,259.6km。」

「このような世界遺産の多くは、北京に集中していますよ。」
「そうなんですか。」

「世界遺産と世界遺産との間の移動がスムーズなので、何かと観光がしやすい環境になっていますよ。」
「それは便利ですね。」

「しかし、中には観光するのが非常に困難な世界遺産もありますよ。」
「そうなんですか。」

「たとえば、その一つに、中国の自然遺産、「丹霞(たんか)」がありますよ。」
「そうなんだ。」

「中国の自然遺産「丹霞(たんか)」(中国丹霞(ちゅうごくたんか))と言えば、中国丹霞は、中華人民共和国の世界遺産の一つである。「丹霞」は中国南部に残る赤い堆積岩が織り成す地形で、それが顕著に見られる6箇所9件が自然遺産として登録された。」

「この世界遺産は、2010年にユネスコの世界遺産に登録されていますよ。」
「はい。」

「まだ世界遺産になってからの年数が、それほど経ってない自然遺産ですよ。」
「はい。」

「中国では、どちらかといえば万里の長城や北京と瀋陽の明・清王朝皇宮、天安門などの文化遺産のイメージが強いですね。」
「そうですね。」

「そのため、ほとんど知られていませんね。」
「そうなんだ。」

「実際中国には、実に美しい景観の自然遺産がいくつも存在しますよ。」
「そうなんですか。」

「環境汚染のイメージが思わずふきとぶような自然遺産を多く保有していますよ。」
「はい。」

「中国へ世界遺産巡りの旅へ出られる方は、是非この国の自然遺産についてチェックしてください。」
「わかりました。」

「中国の自然遺産の中でも、この「中国丹霞(ちゅうごくたんか)」は、特に貴重な自然遺産だとされていますよ。」
「そうなんだ。」

「丹霞(たんか)とは、中国の独特な気候の元で発生した堆積ですよ。」
「はい。」

「地形学や地質学に携わる多くの人から研究対象とされているこの世界遺産は、非常に珍しい堆積岩で形成されていますよ。」
「はい。」

「堆積岩と言えば、堆積岩は、既存の岩石が風化・浸食されてできた礫・砂・泥、また火山灰や生物遺骸などの粒子(堆積物)が、海底・湖底などの水底または地表に堆積し、続成作用を受けてできた岩石である。かつては、火成岩に対し、水成岩とよばれていたこともある。地球の陸の多くを覆い、地層をなすのが普通である。」

「まず日本では、お目にかからないような外見をしていますよ。」
「そうなんですか。」

「その自然遺産は、丘でもなく山でもなく、火山のような印象もなく、「岩の塊」と安易に呼べるほど小さくもありませんよ。」
「そうなんだ。」

「国際的に見ても、非常に価値の高いものだと広く認知されていますよ。」
「はい。」

「「中国にはこんな世界遺産があるんだ~、行ってみたいな~」と思ってくれた方もいるかも知れませんね。」
「そうですね。」

「実は、この世界遺産にはある難点がありますよ。」
「どういうことですか?」

「それは、この世界遺産が「一カ所に集まっていない」と言うことですね。」
「えー?」

「この自然遺産は中国の貴州省の「赤水」、湖南省の「莨山」、広東省の「丹霞山」、福建省の「泰寧」、江西省の「竜虎山」、浙江省の「江朗山」などの六カ所に点在している世界遺産ですよ。」
「バラバラですね。」

「浙江省と言えば、浙江省(せっこうしょう)は、中華人民共和国の省の一つである。略称は浙。華東地区中部に位置し、東シナ海に面す。省都は杭州市。浙とは省内最大の河川・銭塘江(せんとうこう)を指す。銭塘江は蛇行が激しいことから曲江・之江・折江・浙江などと呼ばれてきた。」

「湖南省と言えば、湖南省(こなんしょう)は、中華人民共和国の省の一つである。省都は長沙市。略称は湘。北は湖北省、東は江西省、南は広東省と広西チワン族自治区、西は貴州省と重慶市に接する。長江中下流に位置し、洞庭湖の南に広がるため、湖南と呼ばれる。」

「湖南省の莨山と言えば、莨山は湖南省西南部の新寧県内(広西桂林資源県となりの県)にあり、丹霞地形を特色とする国家重点風景景観区で、国家地質公園でもある。」

「福建省と言えば、福建省(ふっけんしょう)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。福建省は略称を「●(門+虫(門の中に虫))」(びん)と称する。中国大陸南東に位置し、北は浙江省、南西は広東省、西は江西省と隣接している。また台湾海峡を挟み、台湾と接している。」

「貴州省と言えば、貴州省(きしゅうしょう)は、中華人民共和国南西部の省である。省都は貴陽市。略称の黔(けん)は黒を意味する。中国の西南地区に位置し、北に四川省と重慶市、東に湖南省、南に広西チワン族自治区、西に雲南省と接する。」

「江西省の「竜虎山」と言えば、「竜虎山」は、中国、江西省貴渓県にある山である。道教正一派の本山の所在地。正一派は後漢末から三国魏にかけて四川省一帯に勢力を有した五斗米道(ごとべいどう)の末流。第4代天師張盛のとき、西晋の永嘉年間 (307‐312)に竜虎山に本拠を移したと伝え、元以後は全真教と並んで道教を二分する勢力となった。諸神をまつる〈上清宮〉と代々の天師の居処である〈嗣漢天師府〉とが置かれたが、現在はそのごく一部を存するのみである。」

「広東省の「丹霞山」と言えば、丹霞山(たんかさん)は、中華人民共和国(中国)の山である。主峰の標高は618 mである。広東省韶関市近郊にあり、赤みがかった砂岩が長い間の浸食作用を受けて美しい曲線美や際立った断崖を形成しており、丹霞地形という地理用語の由来にもなった。山の名前は、林立する赤い断崖が「丹(あか)い霞」のように見えたことに由来するという。」

「つまり、すべてを回ろうとするとかなり無理が生じますよ。」
「そうですね。」

「2010年に世界遺産に登録されたばかりのこの世界遺産は、まだほとんど日本では認知されていませんよ。」
「そうなんだ。」

「観光に行こうにも、ほとんど詳細が掴めませんよ。」
「どうしようもないですね。」

「どこが最も見晴らしが良いか、日本人にはどの辺りが人気か、というような情報もほとんど見つかりませんよ。」
「困りましたね。」

「観光に行く前に一通りの情報をチェックしておきたいという方には、あまりおススメできない世界遺産かも知れませんね。」
「そうなんだ。」

「タクシーをチャーターすれば、大体どのポイントにもスムーズにアクセスできますよ。」
「はい。」

「現地の様子を見に行くだけなら、それほど大変ではありませんよ。」
「はい。」

「見学自体も、すんなりできると思われますよ。」
「そうなんだ。」

「しかし、どうしても難しいのは到着する時間帯の調整と、その世界遺産の地層の様子が分からないと言うことですね。」
「はい。」

「六カ所に分かれているこの世界遺産は、そのポイントごとに地層の様子が変わりますよ。」
「そうなんですか。」

「非常によく見えるポイントもあれば、あまりよく見えないポイントもありますよ。」
「はい。」

「さらに、この世界遺産は丹(中国で「赤」を表す漢字)の霞(赤に染まることを意味する漢字)を見る為の世界遺産とも言える場所ですよ。」
「はい。」

「なるべく、夕暮れ時に見た方が美しいという点もありますね。」
「そうなんだ。」

「ハッキリ言うと、朝見るのと夜見るのとでは天と地ほど違う世界遺産なので、時間帯の選択が非常に重要ですよ。」
「そうなんですか。」

「もちろん、朝霞の中で見る世界遺産も絶妙ですよ。」
「はい。」

「この世界遺産の場合は、名前からして「見るべき時間帯」が定められているようなものかも知れませんね。」
「はい。」

「この世界遺産を見に行く場合はなるべく、夕暮れ時を狙うようにしてみましょう。」
「わかりました。」





中国の世界遺産と旅~曲阜の孔廟、孔林、孔府(三孔)~

「もう一つ、中国へ行くなら、必ずチェックしておきたい世界遺産がありますよ。」
「それはどこですか。」

「それは、中国曲阜にある「三孔(さんこう)」ですよ。」
「はい。」

「曲阜と言えば、曲阜市(きょくふ-し)は中華人民共和国山東省済寧市に位置する県級市である。省都・済南からは約130kmに位置する。泗河(泗水)が東から西へ流れている。周・春秋時代の魯国の故地であるほか、孔子の生地として世界に知られている。曲阜は中国政府の「国家歴史文化名城」(歴史都市)の称号が真先にあたえられたほか、1994年にユネスコの世界遺産にも登録された。」

「中国曲阜にある「三孔(さんこう)」と言えば、三孔(さんこう)とは、山東省、曲阜市にある孔子ゆかりの建造物、すなわち孔廟、孔府、孔林のことである。1994年以降、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「「三孔」は、その名の通り「孔子」に関連する世界遺産ですよ。」
「そうなんですか。」

「「孔子」と言えば、孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者である。儒家の始祖。 氏名は孔、諱(いみな)は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。」

「孔子についてあまり知らない人の為におおまかに説明すると、孔子は「温故知新」や「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という言葉の発祥元ですよ。」
「はい。」

「「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言えば、物事の程度を超えたゆきすぎは不足していることと同じようによくないことである。」

「「温故知新」と言えば、「温故知新」は、過去の事実を研究し、そこから新しい知識や見解をひらくこと。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」と訓読する。「温」を「あたためて」と読む説もある。なお、「温古知新」と書くのは誤り。」

「中国の名だたる武将に、生き方を指南してきた人物ですよ。」
「そうなんだ。」

「中国では、この名前を知らない人はいませんよ。」
「はい。」

「儒教の始祖として多くの格言を残した孔子は、中国を代表する偉人の一人として数えられていますよ。」
「はい。」

「儒教と言えば、儒教は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。」

「この「三孔」と言うのは、孔子の住んだ場所と孔子の墓、孔子霊を祭る為の場所であり、この三点が世界遺産として保存されていますよ。」
「そうなんだ。」

「孔子霊と言えば、孔子の霊言である。霊言とは、この世の人間の目には見えない霊的存在からの思いを言葉で伝える宗教的な秘儀のこと。」

「しかし、「孔廟」という字面を見ても「何て読むの?」と疑問に思われる方もいるかと思われますね。」
「はい。」

「まず「廟(びょう)」とは、天皇や皇帝など、地位の極めて高い人が眠っている場所のことを意味している漢字ですよ。」
「はい。」

「これは、日本でも同じ意味として用いられている漢字ですよ。」
「そうですね。」

「つまり、「孔廟」とは孔子のお墓のことを意味していますよ。」
「はい。」

「さらに、「孔府(こうふ)」は、孔子や孔子の子孫が住居として使ってきた場所ですよ。」
「はい。」

「「孔府(こうふ)」と言えば、「孔府(こうふ)」は、孔子の直系の子孫が代々住み、且つオフィスとしていたところである。」

「現在で言うワークオフィスのような場所ですよ。」
「そうなんだ。」

「「孔林(こうりん)」は、孔子や孔子の子孫のお墓が並んでいる場所ですよ。」
「はい。」

「「孔林(こうりん)」と言えば、「孔林(こうりん)」は、200haを越える面積を持つ、孔子及びその子孫の墓である。」

「その数たるや十万基以上も保存されていますよ。」
「多いですね。」

「これらの世界遺産は、「孔子ゆかりの地」としてひとまとめにされていますよ。」
「はい。」

「日本にいる孔子のファンも、観光に訪れるスポットになっていますよ。」
「はい。」

「孔林の辺りなどは暗い雰囲気が漂っているので、観光地らしい賑やかさはありませんよ。」
「そうなんだ。」

「曲阜観光を兼ねて訪れると、良いかも知れませんね。」
「はい。」

「三孔のすばらしさがいまいち分からないという人は、一度三孔を撮影した航空写真を探してほしいと思います。」
「わかりました。」

「かなり広い場所ですよ。」
「はい。」

「万里の長城のような巨大なものに惹かれる方には、是非行ってみて欲しい世界遺産ですね。」
「はい。」

「ただの邸宅として公開されている訳ではありませんよ。」
「そうなんですか。」

「資料館として公開されている世界遺産ですよ。」
「はい。」

「儒教の勉強をしている学生などの姿も多く見られますよ。」
「はい。」

「中国の宗教を勉強している人にも、かなりおススメですよ。」
「そうなんだ。」

「お子さん連れで行くと迷子になった時にかなり大変なので、くれぐれも目を離さないように注意しましょう。」
「わかりました。」





中国の世界遺産と旅~武当山古建築~

「中国の伝統武術「武当拳」発祥の地である武当山は、湖北省十堰市にある山脈ですよ。」
「はい。」

「湖北省と言えば、湖北省は、中国長江中流域にある行政区である。南に洞庭湖が有るため、その名前を取って湖北と言う名称がつけられた。略称は鄂、省都は武漢市。」

「湖北省十堰市と言えば、十堰市(じゅうえん-し)は、中華人民共和国湖北省に位置する地級市である。十堰市は湖北省北西部に位置し、湖北省襄陽市(じょうようし)・神農架林区(しんのうか-りんく)、河南省、陝西省(せんせいしょう)、重慶市に接する。漢水が流れており、丹江口ダムがある。」

「中国の伝統武術「武当拳」と言えば、内家拳(ないかけん)または内家とは、太極拳・形意拳・八卦掌(はっけしょう)などを指す、中国武術の専門用語である。これらの武術は道教の聖地のひとつの武当山で、創始されたという伝説もある為に、別名を武当拳(武当派)ともいう。」

「中国の伝統武術「武当拳」発祥の地である武当山と言えば、武当山は、中華人民共和国湖北省十堰市(じゅうえん-し)にある山である。又の名を太和山という。周囲400km、72峰からなる広大な山で、主峰は天柱峰(標高1612m)。山脈中には道観(道教寺院)群がある。「玄天真武大帝」を奉る道教武当派と中国武術の武当拳の発祥地。道観は元の時代に戦火で焼失し、明の洪武帝の時代に再建された。道観と建物は1994年にユネスコの世界遺産(武当山古建築)となる。」

「そこにある古建築群が、「武当山の古建築群」として、1994年に世界遺産に認定されましたよ。」
「はい。」

「武当山の主峰は、「天柱峰」で海抜1,612m、そして周りには、71もの峰が主峰に向かって傾斜をしていて、独特の山岳風景を描き出していますよ。」
「そうなんですか。」

「「天柱峰」と言えば、「天柱峰」は、魯山・沂山(ぎざん)、蒙山の山地とあわせて山東中部の山地を構成する。なかでも泰山が最も高く、主峰の天柱峰(玉皇頂)は標高1545m。山麓地帯は安定した自然をもち、大●(さんずい+文)口(だいぶんこう)文化、竜山文化などの新石器時代遺跡も多く分布する。」

「その峰々は全長400kmにもなり、広大な地域がそのまま世界遺産として認定されていますよ。」
「広大ですね。」

「武当山は、中国の道教における、「聖地の最高峰」とも呼ばれていますよ。」
「そうなんですか。」

「中国の道教と言えば、道教は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。」

「中国道教の最高神・真武大帝がこの山で修行を積み、神になったことで、道教にとっての重要な場所となりましたよ。」
「はい。」

「中国道教の最高神・真武大帝と言えば、真武大帝は、中国・道教の神々の中でも最高クラスの神である。武当山での修行の末、天に登ったという。武当山にあるシンブタイテイ像の足元の玄武は陰と陽の均衡、不老不死を意味し、シンブタイテイのシンボルである。20世紀初頭、一般家庭で新年の迎神のため飾ったという「天地三界十八仏諸神図」にも描かれている。」

「唐の貞観時代(627~647年)には、既に最初の道教施設「五龍祀」が築かれ、道教聖地の基盤を作っていますよ。」
「はい。」

「最初の道教施設「五龍祀」と言えば、武当山は、中国の道教における、「聖地の最高峰」とも呼ばれています。中国道教の最高神・真武大帝がこの山で修行を積み、神になったことで、道教にとっての重要な場所となり、唐の貞観時代(627~647年)には既に最初の道教施設「五龍祀」が築かれ、道教聖地の基盤を作っています。」

「唐と言えば、唐(618年 - 690年,705年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。」

「唐の貞観時代(627~647年)と言えば、武当山は、中国の道教における、「聖地の最高峰」とも呼ばれています。中国道教の最高神・真武大帝がこの山で修行を積み、神になったことで、道教にとっての重要な場所となり、唐の貞観時代(627~647年)には既に最初の道教施設「五龍祀」が築かれ、道教聖地の基盤を作っています。武当山に根付いた道教は、徐々に人々に知られるようになり、道教寺院も増築されていきますが、玄代末期に、戦乱によってその多くが破壊されました。」

「中国の道教と言えば、道教は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。」

「武当山に根付いた道教は、徐々に人々に知られるようになりましたよ。」
「そうなんだ。」

「道教寺院も増築されていきますよ。」
「はい。」

「しかし、玄代末期に、戦乱によってその多くが破壊されましたよ。」
「はい。」

「玄代末期と言えば、唐の貞観時代(627~647年)には既に最初の道教施設「五龍祀」が築かれ、道教聖地の基盤を作っています。武当山に根付いた道教は、徐々に人々に知られるようになり、道教寺院も増築されていきますが、玄代末期に、戦乱によってその多くが破壊されました。」

「それらの寺院を修復、更に寺院を造築したのが、明代(1368~1644年)の永楽帝ですね。」
「そうなんだ。」

「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」

「明代(1368~1644年)の永楽帝と言えば、永楽帝は、明の第3代皇帝である。諱(いみな)は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝(かせいてい)の時に成祖と改称された。諡号(しごう)は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。至正20年(1360年)、紅巾の乱で頭角を現した群雄の一人・朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれた。」

「永楽帝は、武当山に30万以上の軍人や農民などを派遣し、道教施設の修繕・建築に当たりましたよ。」
「はい。」

「こうして古建築群は復活し、そして武当山の名声は更に大きくなり、中国全土に知られるようになりましたよ。」
「はい。」

「最も多かった時期で、道教寺院の数は、2万以上にのぼったと言われていますよ。」
「そんなにたくさんですか?」

「そして、いつしか人々は、「武当山こそが中国道教最大級の聖地である」と見なすようになりましたよ。」
「はい。」

「中国での武当山の位置付けは、中国道教五大山(泰山、衡山、嵩山、華山、恒山)よりも更に上ですよ。」
「そうなんですか。」

「中国道教五大山の中の「恒山」と言えば、恒山(こうざん)は、道教の五岳の一つ、北岳である。中国山西省大同市にあり、北を司るとされる。最高標高は2,016m。中国本土では五指に入る最高峰である。八仙のひとり張果老が住まうとされている。五岳の他の山々と同じく周時代から道教の聖地とされていたことが記録に残るが、他の四山ほど重要視されず、主要な巡礼地となることもなかったようである。」

「中国道教五大山の中の「華山」と言えば、華山(かざん)は、中国陝西省華陰市にある険しい山である。道教の修道院があり、中国五名山の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。」

「中国道教五大山の中の「嵩山」と言えば、嵩山(すうざん)は、中国河南省登封市(とうほう-し)にある山岳群である。五岳の1つの中岳に数えられる。最高峰は標高1440mの太室山である。古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。」

「中国道教五大山の中の「衡山」と言えば、衡山(こうざん)は、道教の五岳の一つ、南岳である。中国湖南省衡陽市衡陽県にあり、南を司るとされる。最高峰は祝融峰の1,300.2m。古名を「寿岳」といい、二十八宿のうち人間の寿命を司るという軫星(軫宿(しんしゅく・みつかけぼし))と対応づけられていた。また、神農氏がここで薬となる植物を採ったとの伝説がある。」

「中国道教五大山の中の「泰山」と言えば、泰山(たいざん)は、中華人民共和国山東省泰安市にある山である。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。封禅(ほうぜん)の儀式が行われる山として名高い。道教の聖地である五つの山(=五岳(ごがく))のひとつ。五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも尊いとされる。ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。」

「したがって、古代から現在に至るまで、武当山が常に中国道教の中核的存在場所であったことは、間違いないでしょう。」
「そうなんだ。」

「武当山には、現在でも道教ゆかりの建築物が多く残っていますよ。」
「はい。」

「山麓から山頂までの道のりは約70km、その道程に、8つの宮殿、100以上の寺院、そして49箇所の橋などが点在していますよ。」
「そんなに?」

「文物も7,000点以上残っていますよ。」
「はい。」

「現在でもそこが中国道教の最高峰として、大きな影響力を持っていることが一目でわかりますね。」
「はい。」

「これら「武当山の古建築群」の中で、山の中腹にある紫霄宮(ししょうきゅう)と山頂にある金殿は、中国重点保護文化財に指定されている、非常に貴重な歴史遺産ですよ。」
「そうなんだ。」

「山頂にある金殿と言えば、金殿は昆明市東北郊外の鳴鳳山の中にある大自然風景区で、銅でできた建物が太陽の下に金色に輝くことからその名が付いた。美しい自然景観に恵まれ、明、清朝時代より有名な景勝地であったが、近年また国家級森林公園に指定された。」

「紫霄宮(ししょうきゅう)と言えば、武当山は、 湖北省にある標高1,612メートルの天柱峰(てんちゅうほう)を中心とする山で、太和宮(たいわきゅう)、紫霄宮(ししょうきゅう)など200もの道教建築が立つ道教の聖地です。元末期には戦火によって多くの建物が焼失しましたが、明の第3代皇帝成祖永楽帝が再建し、現在のような姿となりました。」

「武当山は、古くから多くの宗教家、武当家に拝まれてきた場所ですよ。」
「はい。」

「世界遺産に認定されてから、世界中から注目を浴びるようになったことは想像に難くないでしょう。」
「そうなんだ。」

「更に2000年に公開された映画「グリーン・デスティニー」は、武当術を題材にしており、武当山及び紫霄宮でも撮影が行われましたよ。」
「はい。」

「2000年に公開された映画「グリーン・デスティニー」と言えば、『グリーン・デスティニー』は、2000年の中国・香港・台湾・米国の合作作品で、王度廬の武侠小説『臥虎蔵龍(がこぞうりゅう)』を原作とした武侠映画である。」

「そのことにより、武当山には益々世界的な関心が集まったに違いありませんね。」
「はい。」

「武当山には、道教精神の世界、武術精神の世界、そしてそれらの精神世界を支えてきた場所・古建築群が存在し、日々そこを訪れる人々を魅了していますよ。」
「わかりました。」





中国の世界遺産と旅~廬山~

「廬山は、山西省九江市、長江の中下流に位置する名山ですよ。」
「はい。」

「長江と言えば、長江(ちょうこう)は、青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位。中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう)の名で良く知られる。」

「山西省と言えば、山西省は、中華人民共和国の行政区分の一つである。省都は太原市(たいげんし)。略称は晋。北は万里の長城を挟んで内モンゴル自治区と、東は太行山脈(たいこうさんみゃく)を挟んで河北省と、南は黄河を挟んで河南省と、西は北上した黄河を挟んで陝西省とそれぞれ接している。」

「廬山と言えば、廬山(ろざん)は中国江西省九江市(きゅうこう-し)南部にある名山である。峰々が作る風景の雄大さ、奇絶さ、険しさ、秀麗さが古来より有名で、「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇秀は天下一である)と称えられてきた(匡廬とは廬山の別名)。廬山国家風景名勝区に指定されているほか、廬山自然公園としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。また「廬山第四紀氷河地形国家地質公園」としてジオパークにも指定されており、ユネスコの世界ジオパークネットワークにより認定されている。」

「廬山は、171もの峰からなる複雑怪奇な地形が有名ですよ。」
「そうなんですか。」

「世界遺産には「廬山自然公園」として、1996年に登録されましたよ。」
「はい。」

「廬山自然公園と言えば、廬山(ろざん)は中国江西省九江市南部にある名山である。峰々が作る風景の雄大さ、奇絶さ、険しさ、秀麗さが古来より有名で、「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇秀は天下一である)と称えられてきた(匡廬とは廬山の別名)。廬山国家風景名勝区に指定されているほか、廬山自然公園としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。」

「世界遺産だけでなく、国家風景名勝区に指定されていますよ。」
「はい。」

「「廬山第四紀氷河地形国家地質公園」は、ジオパーク(科学的、歴史的に見て貴重な遺産と見なせる自然公園のこと)で、ユネスコに「世界ジオパーク・ネットワーク」として認定されていますよ。」
「そうなんだ。」

「ユネスコの「世界ジオパーク・ネットワーク」と言えば、世界ジオパークは認定された高品質のジオパークです。GGN は世界ジオパークに認定された地域からなります。世界ジオパークネットワーク(GGN)はユネスコ支援のもと世界のジオパーク活動を推進しています。」

「ジオパークと言えば、ジオパークとは、地球科学的に見て重要な自然の遺産を含む、自然に親しむための公園である。地球科学的に見て重要な特徴を複数有するだけでなく、その他の自然遺産や文化遺産を有する地域が、それらの様々な遺産を有機的に結びつけて保全や教育、ツーリズムに利用しながら地域の持続的な経済発展を目指す仕組み。日本ジオパーク委員会では「大地の公園」という言葉を使っている。」

「「廬山第四紀氷河地形国家地質公園」と言えば、廬山(ろざん)は中国江西省九江市南部にある名山である。「廬山第四紀氷河地形国家地質公園」としてジオパークにも指定されており、ユネスコの世界ジオパークネットワークにより認定されている。」

「中国は世界一のジオパーク保有国で、その数は20以上にものぼりますよ。」
「そうなんですか。」

「廬山は、中国では古代から歴史的、文化的、また宗教的に重要な意味のある山として知られてきましたよ。」
「はい。」

「廬山が中国全土で知られるきっかけを作ったのは、「史記」を著した司馬遷ですね。」
「そうなんだ。」

「司馬遷と言えば、司馬遷(しばせん、紀元前145/135年? - 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者である。姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。」

「司馬遷が著した「史記」と言えば、『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。」

「司馬遷は、紀元前126年に廬山を訪れて登り、その風光明媚な景色を「史記」の中で讃えましたよ。」
「はい。」

「このことで廬山が注目され、後に多くの文人たちが訪れるきっかけになりましたよ。」
「はい。」

「日本でも知られる李白、白居易、王安石を初めとして、中国全土から「文人」と呼ばれる人々が、ここを訪れましたよ。」
「そうなんだ。」

「王安石と言えば、王安石(おう あんせき、天禧5年(1021年) - 元祐元年(1086年))は、北宋の政治家・詩人・文章家である。字は介甫、号は半山。撫州臨川(江西省撫州市)の人。新法党のリーダー。神宋の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して新法を実施し、政治改革に乗り出す。文章家としても有名で、仁宋に上奏した「万言書」は名文として称えられ、唐宋八大家の一人に数えられる。また詩人としても有名である。儒教史上、新学(荊公新学)の創始者であり、『周礼』『詩経』『書経』に対する注釈書『三経新義』を作り、学官に立てた。」

「白居易と言えば、白居易(はくきょい、772年(大暦7年) - 846年(会昌6年))は、中唐の詩人である。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。」

「李白と言えば、李白(りはく、701年(長安元 - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国の盛唐の時代の詩人である。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。」

「そして、文人たちが集結し、数々の芸術を生み出し、廬山は中国の山水詩・山水画の発祥の地になりましたよ。」
「はい。」

「中国の山水画と言えば、山水画(さんすいが)は、中国で発達した絵画のジャンルである。現実の景色の再現を意図した作品もあるが、型による山岳樹木岩石河川などの添景を、再構成した「創造された景色」が多い。神仙や霊獣の住処としての山水表現は秦漢時代から盛んであった。」

「中国の山水詩と言えば、山水詩は、中国詩で、山水自然の澄んだ美しさを主として詠んだものである。山水詩人としては、六朝時代の陶淵明・謝霊運、唐代の王維(おうい)・柳宗元などがいる。」

「このようにして、中国の芸術は廬山で成熟し、新たな芸術を生み出しましたよ。」
「はい。」

「後に世界遺産登録の基準を満たすだけの、膨大な数の文化遺産を積み上げていきましたよ。」
「そうなんだ。」

「廬山は、中国仏教・道教の聖地としても知られ、中国全土から、僧侶たちがこの山を目指し、修行を重ねた所でもありますよ。」
「はい。」

「中国の道教と言えば、道教は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。」

「中国浄土教は、ここ廬山で始まりましたよ。」
「はい。」

「浄土教と言えば、浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教えである。「浄土門」、「浄土思想」とも。また「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰をいう。「浄土信仰」とも。」

「4世紀に浄土教の祖・慧遠が廬山に「東林寺」を建立し、後にここから浄土教が中国全土に広まりましたよ。」
「そうなんだ。」

「廬山の「東林寺」と言えば、「東林寺」は、中国、江西省北部の廬山の北西麓に位置する寺院である。東晋の僧慧遠(えおん)が、桓伊(かんい)の寄進で、4世紀末に建てた古刹。慧永の住した西林寺に対した。慧遠がこの寺の阿弥陀像の前で123人の同志と〈白蓮社〉という念仏の結社を創設して以後、中国における浄土教の根本道場となり、高僧や文人墨客がしきりに訪れた。今も山門には南無阿弥陀仏の名号を掲げ、慧遠の像をまつる三笑堂や槙の大樹に囲まれた念仏堂がある。」

「浄土教の祖・慧遠と言えば、中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(えおん、334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる。」

「道教では、唐代(618~907年)に仙人の呂洞賓が、廬山を修行の場としましたよ。」
「はい。」

「仙人の呂洞賓と言えば、呂洞賓(りょどうひん)は、中国の仙人である。八仙の一人。名を●(巌、巖、岩とも書く。煜という説も)といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。 唐の貞元14年(794年)4月14日に、蒲坂(現在の山西省●(くさかんむり+内)城県)永楽鎮で生まれた。祖父は礼部侍郎の呂渭、父は海州刺史の呂譲。」

「唐と言えば、唐(618年 - 690年,705年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。」

「中国の道教と言えば、道教は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。」

「後に廬山には道教寺院も多く建立されることになり、道教の聖地になりましたよ。」
「はい。」

「廬山には古くから仏教・道教の寺院が多く立ち並び、共存してきましたよ。」
「そうなんですか。」

「その中で現存しているものも数多くありますよ。」
「はい。」

「現在では、これらの仏教・道教寺院が貴重な世界文化遺産として、観光客を魅了していますよ。」
「はい。」

「廬山は、近世に入ると、避暑地としての注目が高まりましたよ。」
「そうなんだ。」

「廬山の気候は温暖湿潤で、夏も比較的涼しく、年間の平均気温は、18度程度ですよ。」
「いいですね。」

「廬山に最初の避暑地を建築したのは、イギリス人のキリスト教宣教師で、19世紀に山頂を避暑地として開発しましたよ。」
「はい。」

「それ以後、中国の要人たちが次々に別荘を構えるようになり、蒋介石、毛沢東、周恩来らも、この地に別荘を持ち、現在でも残っていますよ。」
「はい。」

「周恩来と言えば、周恩来(しゅうおんらい、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家である。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。」

「毛沢東と言えば、毛沢東(もうたくとう、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家である。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。初代中国共産党中央委員会主席。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より党主席(党首)を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。」

「蒋介石と言えば、蒋介石(しょうかいせき、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人である。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、大陸支配を回復することなく没した。」

「今では中国国内でも、「憧れの避暑地」として挙げられるようになりましたよ。」
「そうなんだ。」

「廬山は、多くの人々の心に感動を与える名勝ですよ。」
「はい。」

「その名勝を見た文人からは、人々の心に残る数多くの芸術が生まれましたよ。」
「はい。」

「そして避暑地としても開拓された廬山は、文化的側面、自然の側面、そして、リゾートの側面からも訪れるに値する場所になっていますよ。」
「わかりました。」





中国の世界遺産と旅~蘇州古典園林~

「中国江蘇省蘇州には、数多くの美しい庭園がありますよ。」
「そうなんですか。」

「江蘇省と言えば、江蘇省(こうそしょう)は、中国東部にある行政区である。長江の河口域であり、北部は淮河(わいが)が流れ黄海に面する。名称は江寧(現南京市)の江、蘇州の蘇による。省都は南京市。略称は蘇。北部を山東省、西部を安徽省、南部を浙江省・上海市と接する。東は海に面する。」

「中国江蘇省蘇州と言えば、蘇州市(そしゅうし)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市である。古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城であり、上海市に隣接する地の利があり、現在も省の経済的中心である。」

「それらをまとめて、「蘇州古典園林」と言いますよ。」
「はい。」

「蘇州古典園林と言えば、蘇州古典園林(そしゅうこてんえんりん)は中国、江蘇省、蘇州にある歴史を有する庭園の総称である。蘇州古典園林の庭園の多くは明の時代に建設された。これらの多くは地元の名士により作られたもので、公共事業としてではなく、個人の趣味で置かれたもので、皇帝所有の庭園である皇家園林に対して私家園林という。庭園は豊かな水を利用し、池を配置した素朴な美しさを特徴とする。蘇州以外の江南の地にある名園(例えば上海の豫園)を含めた“江南私家園林”が総称として中国国内では一般的である。」

「その庭園の中で、拙政園、留園、網師園、滄浪亭、環秀山荘の5箇所が1997年に世界遺産として登録されましたよ。」
「そうなんだ。」

「環秀山荘と言えば、環秀山荘(世界遺産古典庭園)は、蘇州刺繍研究所内にある小さな庭園だが、 太湖石による築山が優れ中国随一とされる。 五代時代呉越広陵王銭元燎の”金谷園”の 旧跡であり、宋代には景徳寺と称され、清代に入山荘が建造され、築山も築かれた。」

「滄浪亭と言えば、滄浪亭は、中国の江蘇 (こうそ)省蘇州 (そしゅう)(スーチョウ)に現存する、最も古い庭園の一つである。五代呉越国の広陵王・銭元燎の屋敷だったという説と、五代時代に中呉越軍の節度使だった孫承佑将軍の別荘という説がある。その後、北宋時代の1045年、詩人の蘇舜欽が蘇州に住み着いて改築し、屈源の詩の「滄浪の水」という魚歌から「滄浪亭」と名づけたといわれる。世界遺産に登録されている。一般に蘇州の庭園は高い外壁に囲まれているが、滄浪亭は外堀の疎水越しに美しい園を眺められる。」

「網師園と言えば、網師園は、蘇州の古典園林の一つで、世界遺産にも登録されている庭園です。この網師園もいわゆる私家庭園の一つです、もともとは南宋時代の高官が引退して老後を過ごすために建てた「漁隠」と名づけた庭園です。」

「留園と言えば、留園は中国にある有名な古典園林であり、江南の歴史ある街蘇州に位置し、園内の建築は精巧を極め、奇石(太湖石)が多く名高い。1961年、留園は中華人民共和国国務院により最初の中華人民共和国全国重点文物保護単位の一つとして公表された。1997年、留園を含めた蘇州古典園林は世界文化遺産として登録された。」

「拙政園と言えば、拙政園(せっせいえん)は、世界文化遺産に指定されている蘇州の古典園林である。その中の拙政園は、中国4代名園のひとつでもあり、有名な小説「紅楼夢」の舞台・大観園のモデルともいわれています。もとは唐の詩人陸亀蒙の邸宅でしたが、元代に寺になり、明の時代になって官職を追放された王献臣が故郷の蘇州で寺を買い取り庭園にしたものです。拙政園という名は「閑居賦」の「愚かな者が政治をつかさどる」という意味の一節からとったという説があります。園内は東園、中園、西園の三つに大きく分けられます。敷地の半分以上が大小の美しい蓮池で占められており、特に中園の「遠香堂」からの蓮池の眺めは絶景と評されています。」

「更に2000年には、獅子林、芸圃、?園(ぐうえん)、退思園の4箇所が追加登録されましたよ。」
「はい。」

「退思園と言えば、退思園は同里古鎮にある古典園林(中国庭園)です。池周辺の景色が素晴らしく世界文化遺産にもなっています。」

「芸圃と言えば、芸圃は、蘇州古典園林の一つである。芸圃は蘇州城内の西に所在する明代末期に創設された庭園です。ユネスコの世界遺産にも登録されている名園です。」

「獅子林と言えば、獅子林は、元代に造られた元代の代表的な庭園である。元末の高僧天如禅師が恩師の中峰禅師を記念するために建てた菩提寺であった。 清代乾{12(1747)年に画禅寺と 改名し、それにちなんで園内至るところに獅子の姿に似た太湖石が並べられている。」

「現在では、合計9箇所が世界遺産として認定されていますよ。」
「はい。」

「その中でも、「拙政園」、「留園」、「獅子林」、「滄浪亭」は、「蘇州四大名園」とされていますよ。」
「そうなんですか。」

「滄浪亭と言えば、滄浪亭は、中国の江蘇 (こうそ)省蘇州 (そしゅう)(スーチョウ)に現存する、最も古い庭園の一つである。五代呉越国の広陵王・銭元燎の屋敷だったという説と、五代時代に中呉越軍の節度使だった孫承佑将軍の別荘という説がある。その後、北宋時代の1045年、詩人の蘇舜欽が蘇州に住み着いて改築し、屈源の詩の「滄浪の水」という魚歌から「滄浪亭」と名づけたといわれる。世界遺産に登録されている。一般に蘇州の庭園は高い外壁に囲まれているが、滄浪亭は外堀の疎水越しに美しい園を眺められる。」

「更に、「拙政園」と「留園」は、中国四大庭園の二つとして知られていますよ。」
「はい。」

「中国四大庭園とされているのは、この二つの他に、「頤和園」(北京市)と「承徳の避暑山荘」(承徳市)がありますよ。」
「はい。」

「中国四大庭園の一つの「承徳の避暑山荘」(承徳市)と言えば、承徳避暑山荘と外八廟は中国、河北省、承徳市にある離宮である。1994年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。避暑山荘は清の皇帝がかつての首都である奉天(瀋陽)へ行き来する際、立ち寄る場所として87年間にわたり整備された離宮である。この離宮の整備にあたっては蘇州の寒山寺などがモチーフにされている。その周りには寺廟が周りを取り巻いている。これを外八廟という。」

「中国四大庭園の一つの「頤和園」(北京市)と言えば、頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区(かいでんく)に位置する庭園公園である。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。頤和園の前身は清●(さんずい+猗)園である。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清●(さんずい+猗園が完成している。1884年から1895年(光緒9年から10年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により清●(さんずい+猗園の再建が命令された。その後、庭園は再建され頤和園と改称、離宮とされた西太后の避暑地に利用された。」

「頤和園と避暑山荘は、皇家が所有する庭園ですよ。」
「そうなんですか。」

「蘇州の二つの庭園は、いずれも一般人が私的に建造した庭園ですよ。」
「はい。」

「蘇州に残る古庭園は、このように私的財産を投じて造られたものが多く、最も多い時期には200以上の庭園がありましたよ。」
「多いですね。」

「その中で、現存しているものは60箇所、その中で公開されているものは19箇所ですよ。」
「はい。」

「蘇州が開拓されたのは、三国時代の頃ですよ。」
「はい。」

「三国時代と言えば、三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つである。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹 丕(そう ひ))、蜀(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』および、さらに後世の三国時代を扱った書物によって、広く知られている。」

「この時の呉王が蘇州を都とし、整備したことから、その歴史が始まりましたよ。」
「そうなんですか。」

「三国時代の呉と言えば、呉(ご、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝である。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。」

「やがて蘇州には富豪たちが集まり、富の象徴として、邸宅だけでなく庭園まで造るようになりましたよ。」
「はい。」

「こうした風潮があって、蘇州に多くの庭園が私的に造られるようになりましたよ。」
「そうなんだ。」

「それと同時に、水路も整備され、街中に水路が張り巡らされましたよ。」
「はい。」

「こうして、「庭園の町」だけでなく、「水の町」にもなっていきましたよ。」
「はい。」

「1200年代にはベニスの商人マルコ・ポーロがこの地を訪れ、「世界で最も美しい所」、「東洋のベニス」と絶賛し、そのことを「東方見聞録」に記しましたよ。」
「そうなんですか。」

「「東方見聞録」と言えば、『東方見聞録』は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。日本においては一般的に『東方見聞録』という名で知られており、『世界の記述』とも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』というタイトルが有名である。これは、マルコ・ポーロがアジアで見た物を数えるときいつも「100万」と言ったことに由来する。」

「「東洋のベニス」と言えば、運河による水運が生活に溶け込んでいることから、旧市街地及び周辺の水郷地帯を 含めて、蘇州市は「東洋のヴェニス」と呼ばれています。」

「ベニスの商人マルコ・ポーロと言えば、マルコ・ポーロ(1254年9月15日 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ』もしくは『世界の記述』)を口述した冒険家でもある。」

「東洋人からだけでなく、西洋人からもお墨付きをもらえたわけですね。」
「はい。」

「こうして、蘇州の園林は、古くから西洋でも広く知られ、世界で最も古くから愛される東洋の町の一つになりましたよ。」
「はい。」

「「蘇州の古典園林」と呼ばれる9箇所の庭園は、どこも一見の価値がありますよ。」
「そうなんですか。」

「観光客を最も惹きつけているのは、中国四大庭園に挙げられる「拙政園」と「留園」や、蘇州の現存最古の庭園である「滄浪亭」などですね。」
「はい。」

「滄浪亭と言えば、滄浪亭は、中国の江蘇 (こうそ)省蘇州 (そしゅう)(スーチョウ)に現存する、最も古い庭園の一つである。五代呉越国の広陵王・銭元燎の屋敷だったという説と、五代時代に中呉越軍の節度使だった孫承佑将軍の別荘という説がある。その後、北宋時代の1045年、詩人の蘇舜欽が蘇州に住み着いて改築し、屈源の詩の「滄浪の水」という魚歌から「滄浪亭」と名づけたといわれる。世界遺産に登録されている。一般に蘇州の庭園は高い外壁に囲まれているが、滄浪亭は外堀の疎水越しに美しい園を眺められる。」

「「拙政園」は、元々は唐代の詩人が造った庭園ですよ。」
「はい。」

「唐と言えば、唐(618年 - 690年,705年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。」

「元代には寺に改修され、更に明代には官僚により購入され、再び庭園になりましたよ。」
「そうなんだ。」

「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」

「このように、時代ごとに地主が変わる庭園というのも、なかなか興味深く感じられますね。」
「はい。」

「「蘇州の古典園林」と呼ばれる庭園には、その素材として、太湖石が使われていますよ。」
「はい。」

「太湖石と言えば、太湖石(たいこせき)とは、中国の蘇州付近にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い複雑な形の奇石である。太湖付近の丘や湖に浮かぶ島は青白い石灰岩でできているが、かつて内海だった太湖の水による長年の侵食によって石灰岩には多くの穴が開き、複雑な形と化した。」

「太湖石は、蘇州西側にある湖から採れる材質で、石炭が主となっていますよ。」
「そうなんだ。」

「ミネラルの配合の度合いによって強度や色彩が変化しますよ。」
「はい。」

「太湖石全般が非常に高価なものですよ。」
「はい。」

「その太湖石が、懐があたたかい一般人によって、蘇州の庭園地帯としての開拓期には多く使われましたよ。」
「そうなんだ。」

「このような豪華な私的庭園が密集する地域というのも、中国では珍しいと思いますよ。」
「はい。」

「古くから多くの中国大富豪が競うように庭園を建てた場所、そこには、一体どのような、そしてどれだけの美しい庭園があるのか、想像するだけでわくわくしてきますね。」
「はい。」

「中国人にとって、「蘇州の古典園林」は、おとぎ話の世界のイメージかも知れませんね。」
「そうですね。」





中国の世界遺産と旅~安徽省南部の古代集落群~

「中国安徽省黄山市には、数多くの明・清時代の民居群がありますよ。」
「はい。」

「安徽省と言えば、安徽省(あんきしょう)は、中華人民共和国の省である。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。華東東北部に位置する内陸省である。省南部は長江、省北部は淮河(わいが)が貫流し、昔から江淮の間と呼ばれる平原地帯であった。」

「中国安徽省黄山市と言えば、黄山市(こうざん-し)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市である。市内にある黄山は中国で最も著名な山岳景勝地のひとつで、奇松、怪石、雲海、温泉の「四絶」をもって世に知られている。1990年12月黄山は世界遺産に登録された。また、屯渓老街が2010年第1回「中国歴史文化名街」の1つに選定された。」

「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」

「その中の二つの村、?(い)県にある西逓(せいてい)村と宏村が、2000年に「安徽省南部の古代集落群」として、世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」

「●(黒+多)(い)県にある宏村と言えば、安徽南部の古村落-西逓-宏村は、2000年に登録された中国の世界遺産(文化遺産)である。宏村は、●(黒+多)県中心から8kmのところにあります。この村は、空から見ると、牛の形をしているのが非常に特徴的です。宏村は、湖の大変美しい村として知られ、特に、湖に映し出された民居の数々や自然は大変美しく、ここでは多くの画人たちが絵画を残してきました。その光景から、宏村は別名「中国画里郷村」とも呼ばれています。」

「●(黒+多)(い)県にある西逓(せいてい)村と言えば、安徽南部の古村落-西逓-宏村は、2000年に登録された中国の世界遺産(文化遺産)である。西逓村は、●(黒+多)県中心部から約8kmのところにある古民居群です。村全体にある明・清代の建築物がほぼそのまま保存されていて、「古民居の博物館」と呼ばれています。西逓村には、胡氏一族の居住地がありました。胡氏一族とは、胡錦濤・現中国国家主席(2012年時点)の祖先に当たります。」

「この他の村にも、世界遺産として認定されなかったものの、数多くの古民居が残っていますよ。」
「そうなんだ。」

「黄山市は、貴重な古建築群の地として知られていますよ。」
「そうなんですか。」

「西逓村は、?県中心部から約8kmの所にある古民居群ですよ。」
「はい。」

「村全体にある明・清代の建築物が、ほぼそのまま保存されていますよ。」
「はい。」

「「古民居の博物館」と呼ばれていますよ。」
「そうなんだ。」

「西逓村には、胡氏一族の居住地がありましたよ。」
「はい。」

「胡氏一族(胡錦濤・元中国国家主席の祖先)と言えば、胡 錦濤(こ きんとう、1942年12月21日 - )は、中華人民共和国の政治家である。江沢民引退後の中華人民共和国の最高指導者で、第4代中国共産党中央委員会総書記、第5代中国共産党中央軍事委員会主席、第6代中華人民共和国主席、第3代中華人民共和国中央軍事委員会主席を務めた。先祖は安徽省績渓県出身・兵部尚書にまで出世した胡 宗憲。胡錦濤の曾祖父で胡氏44代目の胡永源は、16、7歳のころに同郷の商人に連れられて各地を転々とし、江蘇省泰州黄橋にて雑貨店を始める。」

「胡氏一族とは、胡錦濤・前中国国家主席(2012年時点)の祖先に当たりますよ。」
「はい。」

「安徽省は、明代に非常に栄え、胡氏一族もそこで商人としての役割を担いましたよ。」
「そうなんだ。」

「現在までの長期に亘り保存されてきた古民居の多くは、この時代に建てられましたよ。」
「はい。」

「村の入口には、「胡文光直視牌楼」という門がありますよ。」
「はい。」

「村の入口にある「胡文光直視牌楼」という門と言えば、安徽省は、明代に非常に栄え、胡氏一族もそこで商人としての役割を担いました。現在までの長期に亘り保存されてきた古民居の多くは、この時代に建てられました。村の入口には「胡文光直視牌楼」という門があり、そこから村に入ると、すぐに古い街並みが現れます。現存するだけでも、その数は300棟もあり、その中の124棟が、一般公開されています。」

「そこから村に入ると、すぐに古い街並みが現れますよ。」
「そうなんだ。」

「現存するだけでも、その数は300棟もあり、その中の124棟が、一般公開されていますよ。」
「はい。」

「西逓村にある建物や道路には、大理石がふんだんに使われていますよ。」
「そうなんですか。」

「私たち日本人の感覚からすると、何とも贅沢な感じがしますね。」
「はい。」

「そして、村全体の建物には共通して、窓枠には黒大理石が使われていますよ。」
「はい。」

「美しい庭と、花鳥のデザインが施された石刻があり、屋根はレンガ造りになっていますよ。」
「そうなんだ。」

「この統一されたデザインや素材感が村の景観を美しく彩り、「世界で最も美しい村」とも呼ばれていますよ。」
「そうなんですか。」

「宏村は、?県中心から8kmの所にありますよ。」
「はい。」

「この村は、空から見ると、牛の形をしているのが非常に特徴的ですよ。」
「はい。」

「例えば、村の入口にある2本の大木は、牛の角に見立てられ、民居群は牛の胴体、村をめぐる川は牛の腸に見立てられるといった感じに、宏村にある自然と造形物を全て合わせてみると、見事に牛の形になっていますよ。」
「そうなんですか。」

「宏村は、湖の大変美しい村として知られていますよ。」
「はい。」

「特に、湖に映し出された民居の数々や自然は大変美しく、ここでは多くの画人たちが絵画を残してきましたよ。」
「はい。」

「そして現在でも、村を行き交う人々の中に、画材やスケッチブックを持つ人たちが多く混じっていますよ。」
「そうなんだ。」

「その光景から、宏村は別名「中国画里郷村」とも呼ばれていますよ。」
「はい。」

「宏村には150棟もの古民居があり、ここもまた、古い街並みがそのまま保存されていますよ。」
「はい。」

「安徽省には独自の建築史があり、その建築物を「徽派建築」と呼びますよ。」
「そうなんですか。」

「徽派建築と言えば、安徽省には独自の建築史があり、その建築物を「徽派建築」と呼びます。徽派建築は、白壁と灰色レンガ造りが大きな特徴です。この徽派建築の様式は、明・清時代に最も多く用いられました。」

「徽派建築は、白壁と灰色レンガ造りが大きな特徴ですよ。」
「はい。」

「この徽派建築の様式は、明・清時代に最も多く用いられましたよ。」
「はい。」

「安徽に住む人々は、古くから洗練された美意識を持っていたのでしょう。」
「そうなんだ。」

「そして、中国伝統建築の模範として、堂々と世界遺産登録にまで至りましたよ。」
「はい。」

「世界遺産に指定されているのは、西逓村と宏村というほんの一部ですよ。」
「そうなんですか。」

「しかし、「安徽省南部の古代集落群」と呼ばれる地域には、実に3,600もの古民居が保存されていますよ。」
「多いですね。」

「見渡す限り、徽派建築のセピアがかった独特のモノクロの世界が広がっていますよ。」
「はい。」

「その光景は、単に美しいというだけでなく、とてもロマンティックですよ。」
「わかりました。」





中国の世界遺産と旅~龍門石窟~

「「龍門石窟」は、中国河南省洛陽市南方にある石窟寺院群ですよ。」
「はい。」

「河南省と言えば、河南省(かなんしょう)は、中華人民共和国の省の1つである。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫洲があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市(ていしゅうし)。約1億もの人口は中国最多である。」

「中国河南省洛陽市と言えば、洛陽市(らくようし)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市である。しばしば中国王朝の首都となった。なお、平安時代の日本においては、文学上の雅称として京都を洛陽と呼ぶことがあった。やがてこれが平安京の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すこととなり、京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。」

「中国三大石窟の一つの龍門石窟と言えば、龍門石窟(りゅうもんせっくつ)は、中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院である。「龍門石窟」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まる。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期(494年 - 520年)と呼ばれる時期の始まりである。龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。」

「黄河の支流・伊河の両岸に築かれていますよ。」
「はい。」

「伊河と言えば、龍門石窟は、中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院である。」

「黄河と言えば、黄河(こうが)とは、中国の北部を流れ、渤海へと注ぐ川である。全長約5,464kmで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、世界では6番目の長さである。なお、河という漢字は本来固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。黄河は玉樹チベット族自治州の東端に近い青海省バヤンカラ山脈に源流があり、7つの省と2つの自治区を縫って流れる。」

「この石窟群は、2000年に世界遺産として登録されましたよ。」
「そうなんだ。」

「「龍門石窟」は、中国三大石窟の一つに数えられていますよ。」
「そうなんですか。」

「その他には、雲崗石窟(大同市)と莫高屈(敦煌)が中国三大石窟として挙げられ、これら全てが世界遺産に登録されていますよ。」
「はい。」

「敦煌と言えば、敦煌市(とんこうし)は、中国甘粛省北西部の都市である。酒泉市の管轄下の県級市である。かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市であり、近隣にある莫高窟とそこから出た敦煌文書で有名である。歴史的な敦煌は現在の敦煌市と瓜州県(かしゅう-けん)を合わせた領域にほぼ重なる。」

「中国三大石窟の一つの莫高屈(敦煌)と言えば、莫高窟(ばっこうくつ)は中華人民共和国甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡である。この中から出た敦煌文書でも有名である。敦煌石窟(とんこうせっくつ)・敦煌千仏洞(とんこうせんぶつどう)とも。1961年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「大同市と言えば、大同市(だいどうし)は、中国山西省北部に位置する地級市である。 省都の太原市に次ぐ山西省第二の都市である。大同市は山西省の最北端、黄土高原の東北部に位置している。」

「中国三大石窟の一つの雲崗石窟(大同市)と言えば、雲崗石窟(うんこうせっくつ)は、中華人民共和国山西省大同市の西方20kmに所在する、東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院である。「雲岡石窟」としてユネスコの世界遺産 (文化遺産) に登録されている。雲岡と表記する事も有る。元は霊巌寺といい、現在では石仏寺などとも呼ばれる。北魏の沙門統である曇曜が文成帝に上奏して460年(和平元年)頃に、桑乾河の支流の武周川の断崖に開いた所謂「曇曜五窟」 (第16窟、第17窟、第18窟、第19窟、第20窟) に始まる。」

「この中で、龍門石窟のある洛陽市と雲崗石窟のある大同市は、その石窟が築かれた時代や地理・政治の関連が深く、しばしばこの2都市とそこにある石窟は、互いに比較対象になっていますよ。」
「そうなんですか。」

「中国河南省洛陽市と言えば、洛陽市(らくようし)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市である。しばしば中国王朝の首都となった。なお、平安時代の日本においては、文学上の雅称として京都を洛陽と呼ぶことがあった。やがてこれが平安京の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すこととなり、京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。」

「尚、「龍門石窟」は、中国の重要文化財にも指定されていますよ。」
「はい。」

「龍門石窟が開屈されたのは、北魏時代(386~534年)のことですよ。」
「はい。」

「北魏時代(386~534年)と言えば、北魏(ほくぎ、386年- 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国である。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある。」

「北魏の皇帝、孝文帝が大同から洛陽に遷都し、洛陽の開拓が始まりましたよ。」
「はい。」

「北魏の皇帝、孝文帝と言えば、孝文帝(こうぶんてい、467年10月13日- 499年4月26日)は、北朝北魏の第7代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)である。諱(いみな)は宏。孝文帝は第6代皇帝・献文帝の長男に当たる。」

「孝文帝はまた非常に仏教に傾倒しており、494年から石窟内の仏像制作を始めましたよ。」
「そうなんだ。」

「龍門石窟では、当初は私的な仏像や石窟を彫ることがメインになっていましたよ。」
「はい。」

「開屈作業と仏像制作がその後約400年、唐代初期まで続くことになりましたよ。」
「長期間ですね。」

「唐と言えば、唐(618年 - 690年,705年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。」

「その間に時代は変わり、皇帝の要望も変わり、大小様々な石窟と仏像群が出来上がることになりましたよ。」
「はい。」

「その数は、石窟が約2,100、仏像が10万体以上にもなると言われていますよ。」
「そんなに多いんですか?」

「そして、このうちの3割が北魏の時代に造られ、残りの7割が、それ以降から唐代に入るまでに造られたと言われていますよ。」
「はい。」

「このような大規模な石窟群は、遠くから見渡してみると、まるで穴ぼこだらけの岩山、という感じですね。」
「はい。」

「龍門石窟が彫られた地帯の石質は、カンラン石ですよ。」
「そうなんですか。」

「(龍門石窟が彫られた地帯の石質の)カンラン石と言えば、かんらん石は、鉱物(ケイ酸塩鉱物)のグループ名である。マグネシウムや鉄のネソケイ酸塩鉱物である。Mg2SiO4(苦土かんらん石)と Fe2SiO4(鉄かんらん石)との間の連続固溶体をなす。」

「中国三大石窟の一つの龍門石窟と言えば、龍門石窟(りゅうもんせっくつ)は、中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院である。「龍門石窟」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まる。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期(494年 - 520年)と呼ばれる時期の始まりである。龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。」

「実は、この石質こそ石窟及び仏像制作には重要な要素になりますよ。」
「そうなんだ。」

「カンラン石は非常に硬く、彫る作業には向いていませんよ。」
「はい。」

「雲崗石窟の花崗岩は、柔らかくあらゆる造形物を彫り上げ、大仏制作にも適していましたよ。」
「はい。」

「(雲崗石窟の)花崗岩と言えば、花崗岩(かこうがん)とは、火成岩の一種である。流紋岩に対応する成分の深成岩である。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれる。雲崗石窟の花崗岩は柔らかく、あらゆる造形物を彫り上げ、大仏制作にも適していました。」

「龍門ではそれが非常に難しく、そのため石窟を彫る以外は、小さな仏像を大量に造ることが精一杯でしたよ。」
「そうなんだ。」

「但し、石刻技術が最も栄えた600年代後半には、大仏も造られましたよ。」
「はい。」

「その大仏は、「奉先寺洞」にある、「廬舎那仏」ですね。」
「はい。」

「「奉先寺洞」と言えば、絶頂期の龍門石窟が、675年(上元2年)に完成した「奉先寺洞」である。」

「「奉先寺洞」にある「廬舎那仏」と言えば、絶頂期の龍門石窟が、675年(上元2年)に完成した「奉先寺洞」である。これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。また、武則天は弥勒物の化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である。」

「廬舎那仏の高さは17.14mもあり、これは雲崗石窟最大の仏像の16.8mを上回りますよ。」
「そうなんだ。」

「廬舎那仏は、かつては武則天の容姿をモチーフにしたと言われていましたよ。」
「はい。」

「武則天と言えば、武則天(ぶそくてん)は、中国史上唯一の女帝である。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照。日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。」

「その後の研究結果で、その説は否定され、誰がモチーフになっているのかははっきりしていませんよ。」
「はい。」

「ただ、廬舎那仏、そしてそれがある奉先寺洞は、龍門石窟の中でも最も規模が大きいことは間違いなく、一番多くの観光客をひきつけていますよ。」
「そうなんですか。」

「「奉先寺洞」と言えば、絶頂期の龍門石窟が、675年(上元2年)に完成した「奉先寺洞」である。」

「奉先寺洞は、伊河から眺めることができ、船に乗り洞窟全体を見渡すというのが最高に気分がよく、観光客に愛されているアトラクションになっていますよ。」
「はい。」

「伊河と言えば、龍門石窟は、中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院である。」

「近現代に入り、中国では文化大革命(1966~1976年)が起きましたね。」
「はい。」

「文化大革命(1966~1976年)と言えば、プロレタリア文化大革命、通称文化大革命は、中華人民共和国で1966年から1977年まで続いた、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動である。略称は文革(ぶんかく)。政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動という名目で開始されたものの、実質的には大躍進政策の失政によって政権中枢から失脚していた毛沢東らが、中国共産党指導部内の実権派による修正主義の伸長に対して、自身の復権を画策して引き起こした大規模な権力闘争(内部クーデター)として展開された。」

「この時に仏教は否定され、龍門石窟の多くの仏像も破壊されましたよ。」
「そうなんですか。」

「しかし幸いなことに、奉先寺洞周辺には被害がなく、現在でも大仏や仏像の数々を拝みに行くことができますよ。」
「はい。」

「「穴だらけ」の岩山を眺め、そこに近づいて今度は仏像群の中に身を置く、龍門石窟では、そんなユニークな体験ができそうですよ。」
「わかりました。」





中国の世界遺産と旅~マカオ歴史地区~

「マカオは、1999年に中国に返還された旧ポルトガル領ですね。」
「そうですね。」

「マカオと言えば、中華人民共和国マカオ特別行政区、通称マカオは、中華人民共和国の特別行政区(中華圏特別行政区)の一つである。中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置する旧ポルトガル植民地で、現在はカジノや世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる。」

「現在は、中国特別行政区という位置づけになっていますね。」
「はい。」

「中国特別行政区と言えば、特別行政区とは、本国の地方行政制度とは異なる行政機関が設置され、独自の法律が適用されるなど、大幅な自治権を持つ地域のことである。特に中国における制度を指す。特区と略称されることもある。」

「同じく特別行政区には、旧イギリス領の香港がありますね。」
「そうですね。」

「しかし、マカオは香港と比べて面積が非常に小さく、香港の約1/40程度ですよ。」
「そんなに小さいんですか?」

「ここには、中世の東洋と西洋の交易から生まれた文化が多く残っていますよ。」
「はい。」

「マカオ市内にある22の建造物、そして8箇所の広場が「マカオ歴史地区」として、2005年に世界遺産として認定されましたよ。」
「そうなんだ。」

「この世界遺産登録により、中国は世界遺産保有数で、世界トップ3に入りましたよ。」
「そうなんですか。」

「そういう意味で、中国にとってこの世界遺産登録は、とても意味のあるものでしたね。」
「はい。」

「中国の地・マカオにポルトガル人が初めて訪れたのは、1513年のことですよ。」
「はい。」

「そして、「黄金の国ジパング=日本」と主に銀の貿易を行う拠点として、マカオではポルトガル人の入植が始まりましたよ。」
「そうなんだ。」

「そして貿易産業が栄えると、1553年ついに中国はポルトガル人のマカオ居住を許可するようになりましたよ。」
「はい。」

「こうして、東洋と西洋の交易の中継地点として、マカオの発展は始まりましたよ。」
「はい。」

「それと同時に、多くのキリスト教宣教師がマカオを拠点にして、アジアでの布教活動を開始しましたよ。」
「そうなんだ。」

「このことは、実は日本のキリシタンにとって、非常に重要な出来事になりましたよ。」
「そうなんですか。」

「日本では、キリシタンが迫害されていたからですよ。」
「はい。」

「迫害されたキリシタンの多くがマカオに逃れ、そこで教会や聖堂の建築に携わったと言われていますよ。」
「そうなんだ。」

「マカオは中国の人々だけでなく、日本人にとっても、最も身近な「西洋世界」でしたよ。」
「はい。」

「マカオは、1887年、正式にポルトガルの統治下に入りましたよ。」
「はい。」

「それ以降、約100年かけて、マカオにおける西洋色は、益々強くなりましたよ。」
「そうなんだ。」

「しかし、それはただ旧中国文化を破壊して西洋文化を浸透させるのではなく、中国文化と西洋文化の見事な融合を果たす時期になりましたよ。」
「はい。」

「こうしてマカオには、東洋とも西洋とも言い切れない独特の文化が根付きましたよ。」
「はい。」

「その史跡も大切に保存してきた経緯が高く評価され、世界遺産認定にまで至りましたよ。」
「そうなんだ。」

「それまでの道のりは、単に古建築を再利用していたという簡単なものではありませんよ。」
「そうなんですか。」

「例えば、マカオで最も象徴的とされる「聖ポール天主堂跡」は、その老朽化により取り壊される危機にありましたよ。」
「はい。」

「聖ポール天主堂と言えば、聖ポール天主堂跡(サン・パウロ天主堂跡は、イエスの使徒である聖パウロに捧げられた、マカオにあるポルトガルの17世紀の大聖堂の遺跡であり、マカオの最も有名な歴史的建築物の一つである。大三巴牌坊、または単に大三巴、牌坊として広く知られている。2005年、聖パウロ天主堂跡は、公式にユネスコの世界遺産「マカオ歴史地区」の一部として登録された。」

「そこで、1990年に、慌てて学者たちが遺跡発掘に乗り出しましたよ。」
「はい。」

「その結果、地下納骨堂、日本人キリシタンや宣教師らの遺骨、宗教遺物など、多くの史跡を発見するに至りましたよ。」
「そうなんだ。」

「このようにして、取り壊しを何とか逃れてきた歴史もありましたよ。」
「はい。」

「そして、世界遺産に登録された現在では、ユネスコに正式に指定された建築物や広場を始めとした街並み保存を優先し、多くの観光客を惹きつけていますよ。」
「はい。」

「マカオは「マカオ歴史地区」として世界遺産に認定されましたよ。」
「はい。」

「マカオという地そのものが「歴史地区」であり、マカオそのものが世界遺産ですよ。」
「わかりました。」





中国の世界遺産と旅~中国丹霞~

「中国南部では、「丹霞地形」という中国南部地独自の地形が形成されていますよ。」
「はい。」

「中国南部の「丹霞地形」と言えば、丹霞地形(たんかちけい)は、中国南部に見られる切り立った断崖などを特徴とする、赤い堆積岩が隆起した地形である。中国で見られる地形の中でも特異で、主として白亜紀の赤みがかった砂岩や礫岩によって形成されている。名前の由来は丹霞山である。丹霞山にちなんで「丹霞層」という呼び名が1928年に使われ、1939年に地質学者の陳国達が「丹霞地形」という名称を初めて使ったという。」

「丹霞地形は、鉄分やマンガンにより赤みがかった堆積岩(たいせきがん)が特徴ですよ。」
「はい。」

「堆積岩と言えば、堆積岩は、既存の岩石が風化・浸食されてできた礫・砂・泥、また火山灰や生物遺骸などの粒子(堆積物)が、海底・湖底などの水底または地表に堆積し、続成作用を受けてできた岩石である。かつては、火成岩に対し、水成岩とよばれていたこともある。地球の陸の多くを覆い、地層をなすのが普通である。」

「亜熱帯性気候が造り出した独自の景観を持っていますよ。」
「そうなんですか。」

「中国では、「赤い色」という意味の漢字で「丹」が使われることから、この赤い堆積岩の地形は「丹霞地形」と名付けられましたよ。」
「はい。」

「そして、この丹霞地形が特徴となる土地のうち6箇所が、2010年に「中国丹霞」としてひとまとめに、世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」

「中国には世界遺産登録がされた箇所以外にも、各地に丹霞地形を有する所がありますよ。」
「そうなんですか。」

「その数は、780以上にもなりますよ。」
「そんなにあるんですか?」

「世界遺産になったのは、全ての丹霞地形のほんの一部、ということになりますね。」
「はい。」

「そして、世界遺産となった6箇所のうち、丹霞山と竜虎山は、世界ジオパークにも認定されていますよ。」
「はい。」

「ジオパークと言えば、ジオパークとは、地球科学的に見て重要な自然の遺産を含む、自然に親しむための公園である。地球科学的に見て重要な特徴を複数有するだけでなく、その他の自然遺産や文化遺産を有する地域が、それらの様々な遺産を有機的に結びつけて保全や教育、ツーリズムに利用しながら地域の持続的な経済発展を目指す仕組み。日本ジオパーク委員会では「大地の公園」という言葉を使っている。」

「江西省の「竜虎山」と言えば、「竜虎山」は、中国、江西省貴渓県にある山である。道教正一派の本山の所在地。正一派は後漢末から三国魏にかけて四川省一帯に勢力を有した五斗米道(ごとべいどう)の末流。第4代天師張盛のとき、西晋の永嘉年間 (307‐312)に竜虎山に本拠を移したと伝え、元以後は全真教と並んで道教を二分する勢力となった。諸神をまつる〈上清宮〉と代々の天師の居処である〈嗣漢天師府〉とが置かれたが、現在はそのごく一部を存するのみである。」

「広東省の「丹霞山」と言えば、丹霞山(たんかさん)は、中華人民共和国(中国)の山である。主峰の標高は618 mである。広東省韶関市近郊にあり、赤みがかった砂岩が長い間の浸食作用を受けて美しい曲線美や際立った断崖を形成しており、丹霞地形という地理用語の由来にもなった。山の名前は、林立する赤い断崖が「丹(あか)い霞」のように見えたことに由来するという。」

「「中国丹霞」に含まれるその他の所は、貴州省赤水市(西部と東部)、福建省泰寧県(北部と南部)、湖南省の莨山、そして、浙江省江山市にある江郎山ですよ。」
「はい。」

「浙江省江山市と言えば、江山市(こうざん-し)は中華人民共和国浙江省の衢州市(くしゅう-し)に位置する県級市である。市内の江郎山は丹霞地形の印象的な山並で、古来より名山として知られ、世界遺産の「中国丹霞」にも含まれている。」

「浙江省江山市の江郎山と言えば、江郎山は現地の人が神と仰ぐ山である。唐代の大詩人白居易は「いずくんぞ此の身に羽翼を生じ、君と来往して煙霞に酔ふを得ん(なんとかこの身に翼を得て、君と行き来し、山水の風景を楽しみたいものだ)」という詩句を詠み、この山の景観を褒め讃えた。」

「湖南省の莨山と言えば、莨山は湖南省西南部の新寧県内(広西桂林資源県となりの県)にあり、丹霞地形を特色とする国家重点風景景観区で、国家地質公園でもある。」

「福建省泰寧県と言えば、泰寧県(たいねいけん)は、中華人民共和国福建省三明市に位置する県である。丹霞地形の山地や洞窟で知られ、泰寧風景名勝区、泰寧世界地質公園、国家森林公園などが世界遺産・中国丹霞の一部として登録されている。」

「貴州省赤水市と言えば、赤水市(せきすい-し)は、中華人民共和国貴州省遵義市(じゅんぎし)に位置する県級市である。丹霞地形で知られる赤水風景名勝区や赤水木沙(ヘゴ)国家級自然保護区があり、世界遺産・中国丹霞の一つとして登録されている。」

「丹霞地形の形成は、ジュラ紀から新第三紀(約1億9960万年~258万年前)にまで遡ると言われていますよ。」
「そうなんですか。」

「新第三紀と言えば、新第三紀は地質時代の区分の一つで、2,303万年前から258万年前までの時代を指す。新生代の第2の紀であり、古第三紀から続き、第四紀へ繋がる。新第三紀はさらに、中新世・鮮新世の2つに時代区分される。」

「ジュラ紀と言えば、ジュラ紀は現在から約1億9960万年前にはじまり、約1億4550万年前まで続く地質時代である。三畳紀の次で白亜紀の一つ前にあたる中生代の中心時代、あるいは恐竜の時代と言える。ジュラ紀の名前は、フランス東部からスイス西部に広がるジュラ山脈において広範囲に分布する石灰岩層にちなみ、1829年にアレクサンドル・ブロンニャールにより提唱された。その後、1962年と1967年に開かれた国際ジュラ系層序小委員会により、11の階(期)の区分が確立された。」

「それほど前の時代のことなど、もはや誰にも想像できず、逆にそれだけ長い年月を経て、今尚その形を残しているという事実には、ただただ驚くばかりですね。」
「はい。」

「この地形の世界遺産申請に携わったある人は、中国丹霞を「世界遺産の中で輝くひと粒の真珠」と表現しましたよ。」
「はい。」

「そして、これだけの長期間存在し続けた中国丹霞は、地質学的にも非常に興味深く、これから益々その保存に、中国という国家全体で取り組んでいくことが予想されますね。」
「そうなんだ。」

「共通する地形を持った「中国丹霞」ですが、その6箇所がそれぞれに個性を持ち、観光客を魅了していますよ。」
「はい。」

「その中でも最も有名なのが、「丹霞山」ですね。」
「そうなんですか。」

「丹霞山には、広東省四大名山の一つとしても知られている「巴寨(はさい)」があり、その景観の美しさが観光客を惹きつける理由の一つになっていますよ。」
「はい。」

「広東省四大名山の一つとしても知られている「巴寨(はさい)」と言えば、共通する地形を持った「中国丹霞」ですが、その6箇所がそれぞれに個性を持ち、観光客を魅了しています。その中でも最も有名なのが、「丹霞山」です。丹霞山には、広東省四大名山の一つとしても知られている「巴寨(はさい)」があり、その景観の美しさが観光客を惹きつける理由の一つになっています。」

「丹霞地形を形成する「陽元石」は男性性器に、「陰元石」は女性性器の形に非常に似ていますよ。」
「そうなんですか。」

「丹霞地形を形成する「陰元石」と言えば、共通する地形を持った「中国丹霞」ですが、その6箇所がそれぞれに個性を持ち、観光客を魅了しています。丹霞地形を形成する「陽元石」は男性性器に、「陰元石」は女性性器の形に非常に似ていて、そういったユニークな奇石群もまた観光客を惹きつけています。」

「丹霞地形を形成する「陽元石」と言えば、共通する地形を持った「中国丹霞」ですが、その6箇所がそれぞれに個性を持ち、観光客を魅了しています。丹霞地形を形成する「陽元石」は男性性器に、「陰元石」は女性性器の形に非常に似ていて、そういったユニークな奇石群もまた観光客を惹きつけています。」

「そのようなユニークな奇石群もまた観光客を惹きつけていますよ。」
「そうなんだ。」

「そして、世界ジオパークに指定されていることから、世界の地質学者からの関心も多く、このように、丹霞山には世界中から様々な人たちが様々な目的で集まってきますよ。」
「はい。」

「広東省の「丹霞山」と言えば、丹霞山(たんかさん)は、中華人民共和国(中国)の山である。主峰の標高は618 mである。広東省韶関市近郊にあり、赤みがかった砂岩が長い間の浸食作用を受けて美しい曲線美や際立った断崖を形成しており、丹霞地形という地理用語の由来にもなった。山の名前は、林立する赤い断崖が「丹(あか)い霞」のように見えたことに由来するという。」

「その他の世界遺産に指定されている丹霞地形も、それぞれに個性的な美しさがありますよ。」
「はい。」

「貴州省赤水市の西部・東部ともに「風景名勝区」があることを筆頭に、殆どの場所が「風景名勝区」に指定されていますよ。」
「そうなんだ。」

「したがって、「中国丹霞」が形成する景観が、いかに美しいものであるかが想像できると思います。」
「わかりました。」

「まさにそれは、「真珠」という表現に相応しい、地形が織り成す宝石ですよ。」
「はい。」

「「中国丹霞」、或いは丹霞地形を形成する美しい場所は、中国南部に行くと至る所にありますよ。」
「そうなんですか。」

「したがって、一度に全てを回ることは不可能ですよ。」
「なるほど。」

「しかしながら、全てを見て回る必要はないでしょう。」
「そうなんですか。」

「たった1箇所の丹霞地形の風景を見ても、そこには人々を圧倒する歴史の重みがありますよ。」
「はい。」

「そして、もし1箇所でも丹霞地形を見ることができるなら、その思い描くのが困難な、遥か遠い昔の世界に、想いを馳せてみてはいかがでしょう。」
「わかりました。」

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