中国の世界遺産と観光
「中国は、日本の隣国でありながら、まだまだ認知されていない点がたくさんありますね。」
「そうですね。」
「万里の長城が日本の二つ分くらいの長さを有していること、公害が問題になる反面で、世界で最も美しい自然遺産を多く有していることも、あまり日本では知られていませんね。」
「はい。」
「万里の長城と言えば、中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。2009年4月18日の中華人民共和国国家文物局の発表により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関(かよくかん)まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmと発表された。現存する人工壁の延長は6,259.6km。」
「日本にいる「中国通」と呼ばれる人々は、そのようなことを当然の様に承知しているかも知れませんが、まだまだ中国は、偏見を抱かれがちな国ですね。」
「そうですね。」
「そんな中国を知るに当たって、最も分かりやすいテーマをご存じでしょうか?」
「何でしょうか?」
「そのテーマとは、「世界遺産」ですよ。」
「はい。」
「その国の地理や食文化を一つずつ学ぼうとすると、膨大な時間を要してしまいますね。」
「はい。」
「世界遺産を学ぶと、その国の人々が知って欲しいと思っている美点も、その国の重要な歴史も一気に学ぶことができますよ。」
「そうなんだ。」
「中国の世界遺産と聞いて、いくつ挙げられるでしょうか?」
「少ないです。」
「おそらく、万里の長城、天安門広場などはすぐに挙がっても、それ以外の世界遺産は中々挙がらないのではないかと思われますね。」
「そうですね。」
「天安門広場と言えば、中華人民共和国北京市の故宮天安門に隣接する広場である。明の成祖永楽帝が北京遷都した時期には天安門から南下し「大明門」(清朝では「大清門」、辛亥革命後に「中華門」と改名)に至る「千歩廊」と称される大通りと、現在の長安路に存在した「長安左門」と「長安右門」の間を結んだ丁字形の空間が存在し、天安門広場の原形が既に存在していた。」
「中国には、41個の世界遺産が存在していますよ。」
「そんなに多いんですか?」
「しかも、その一つ一つが、他の国ではまず見つからないような、この世のものとは思えないようなロケーションをしていますよ。」
「そうなんですか。」
「しかし、中国は、世界でも稀にみる広大な面積を有する国ですよ。」
「はい。」
「すべての世界遺産を回ることは、よほど時間のある人でないと不可能と言えますね。」
「はい。」
「しかも、この国の場合は世界遺産と世界遺産の距離が離れ過ぎていますよ。」
「そうなんだ。」
「ピンポイントに回るだけでも、かなり苦労しますよ。」
「はい。」
「できれば、いろんな場所を一日で回りたいですね。」
「そうですね。」
「しかし、この国では、一カ所の世界遺産を一日かけてじっくり回るのが得策ですよ。」
「そうなんだ。」
「世界遺産によって異なりますが、世界遺産の周辺の交通機関が発達してたり、そうでなかったりと差が激しいですよ。」
「はい。」
「「ちょっと郊外に出ただけなのに、交通ラインが途絶えてしまった」というケースにおちいる可能性も、考慮しておく必要がありますよ。」
「そうなんですか。」
「日本語を使えるドライバーに依頼するか、中国語を頑張って使って済ますかで、利用料金も大きく変わってきますよ。」
「はい。」
「世界遺産をスムーズに観光したいのであれば、あらかじめそのような点も、詳細にチェックしておくことをおススメします。」
「わかりました。」
「できれば、日本語を使えるドライバーさんを利用するのが一番ですね。」
「そうなんだ。」
「しかし、このドライバーさんも色々な会社から派遣されていますよ。」
「はい。」
「所属団体を選ばないと、大変な目に遭うかも知れませんよ。」
「そうなんですか。」
「日本人の場合は、外国でナメられやすいところがどうしてもありますね。」
「はい。」
「なるべく誠実な会社でチャーターした方が、何かと安心ですよ。」
「はい。」
「世界遺産周辺では、何でもないただの水が、目が飛び出るほど高額な値段で取引されていたりもしますよ。」
「そうなんだ。」
「特に、万里の長城周辺は、そのような売り子が多いですよ。」
「はい。」
「どこへ行くにも、まず飲み物を持参する癖をつけましょう。」
「わかりました。」
「ただし、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮のような世界遺産の場合、様子も大きく変わってきますよ。」
「どういうことですか?」
「清と言えば、清(しん)は、清朝(しんちょう)、清国(しんこく)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。」
「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱 元璋(しゅ げんしょう)が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」
「明・清王朝皇宮と言えば、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮は、中華人民共和国にあるユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された遺産名である。1987年に登録された北京の故宮博物院は世界最大の皇宮で、明と清の24代にわたる皇帝の宮城であった。また、2004年追加登録された瀋陽の瀋陽故宮は清の前身・後金の皇帝ヌルハチとホンタイジの皇宮ならびに清王朝の離宮であった。」
「瀋陽と言えば、瀋陽市は、中華人民共和国遼寧省の省都である。欧米諸語では、ムクデン(Mukden)の名もよく用いられる。中国東北部(満州)の主要都市の一つ。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる運河の古名・瀋水の北に位置することから由来した。国家歴史文化名城に指定される観光都市でもある。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。都市人口は810万人と東北地方最大の都市である(2011年まで)。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「とにかく、まずはお目当ての世界遺産を見つけて、その周辺情報をチェックするところから初めましょう。」
「わかりました。」
「時期によって、世界遺産○○周年というイベントが催されていることもありますよ。」
「はい。」
「そのような点をスルーしてしまわないように、ホームページの情報をくまなく見ておくことをおススメします。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と観光~北京と瀋陽の明・清王朝皇宮~
「中国には、周辺諸国にはまず存在しない、巨大な世界遺産が現存していますよ。」
「そうなんですか。」
「中でも、「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮(ぺきんとしんようのみん・しんおうちょうこうきゅう)」という世界遺産は、他の世界遺産を圧倒するほど巨大な建造物ですよ。」
「そうなんだ。」
「明・清王朝皇宮と言えば、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮は、中華人民共和国にあるユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された遺産名である。1987年に登録された北京の故宮博物院は世界最大の皇宮で、明と清の24代にわたる皇帝の宮城であった。また、2004年追加登録された瀋陽の瀋陽故宮は清の前身・後金の皇帝ヌルハチとホンタイジの皇宮ならびに清王朝の離宮であった。」
「瀋陽と言えば、瀋陽市は、中華人民共和国遼寧省の省都である。欧米諸語では、ムクデン(Mukden)の名もよく用いられる。中国東北部(満州)の主要都市の一つ。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる運河の古名・瀋水の北に位置することから由来した。国家歴史文化名城に指定される観光都市でもある。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。都市人口は810万人と東北地方最大の都市である(2011年まで)。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「この世界遺産は、1987年にユネスコの文化遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「万里の長城に引けを取らない巨大遺跡であると同時に、世界最大の木造の宮殿ですよ。」
「そうなんですか。」
「万里の長城と言えば、中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。2009年4月18日の中華人民共和国国家文物局の発表により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関(かよくかん)まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmと発表された。現存する人工壁の延長は6,259.6km。」
「見る者すべてを圧倒するスケールのこの世界遺産は、何と万里の長城のある場所と同じ北京に保存されていますよ。」
「はい。」
「この世界最大の木造宮殿・「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」は、北京市中央部東城区に保存されていますよ。」
「はい。」
「今では故宮(貴族の拠点として機能しなくなった宮殿)として観光されるようになっていますよ。」
「そうなんだ。」
「この「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」は、14世紀から20世紀初頭までのおよそ500年間に渡って、貴族の生活の拠点として使われていましたよ。」
「はい。」
「ラスト・エンペラーである「溥儀(ふぎ)」が退去するまで、ずっと宮殿として使われ続けてきた住居でしたよ。」
「はい。」
「ラスト・エンペラーである「溥儀(ふぎ)」と言えば、中華圏最後の皇帝(ラストエンペラー)として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝と称された。清朝滅亡後に日本政府の支持のもと満州国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳帝と称した。満洲国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜となった。」
「中国最後の王朝である清王朝の皇帝・ヌルハチ(万里の長城の北部に「後金」を建てた偉人)や、その息子であるホンタイジが住んでいた瀋陽の故宮も、今では博物館として現存していますよ。」
「そうなんですか。」
「中国最後の王朝である清王朝の皇帝・ヌルハチの息子のホンタイジと言えば、ヌルハチの死後、家督を継いだのは八男のホンタイジ(1592~1643)です。ホンタイジとは皇太子の意味です。1626年、ハンに即位したホンタイジは、翌年従兄のアミンに朝鮮を征服させたのを皮切りに、内モンゴルに侵入し1635年にはその地をことごとく支配下に収めるのです。」
「万里の長城の北部の「後金」と言えば、漢民族の中国は万里の長城までで、それより北は蛮族の土地と思われていて、満州はその万里の長城の北の女真族の土地で、その女真族のヌルハチが後金を建国し、後に万里の長城を乗り越えて侵攻し、明を滅ぼして清を建国したものでした。」
「中国最後の王朝である清王朝の皇帝・ヌルハチ(万里の長城の北部に「後金」を建てた偉人)と言えば、中国最後の王朝である清王朝の皇帝・ヌルハチ(万里の長城の北部に「後金」を建てた偉人)や、その息子であるホンタイジが住んでいた瀋陽の故宮も今では博物館として現存しています。ラストエンペラーが出て行ってからは博物館、故宮博物院として一般に公開されている世界遺産です。」
「清と言えば、清(しん)は、清朝(しんちょう)、清国(しんこく)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。」
「万里の長城と言えば、中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。2009年4月18日の中華人民共和国国家文物局の発表により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関(かよくかん)まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmと発表された。現存する人工壁の延長は6,259.6km。」
「日本では、まず見ることのできない広大な敷地に建築されていますよ。」
「はい。」
「目にしてからの数秒間は、時が止まったように感じてしまうと思われますよ。」
「そうなんだ。」
「ラストエンペラーが出て行ってからは、博物館、故宮博物院として一般に公開されていますよ。」
「はい。」
「故宮博物院と言えば、台湾の台北市にある博物館である。この博物館は、中華民国の国立博物館のうちの1つであり、最大のもので、696,000個以上の古代の中国の人工品および美術品を所蔵している。ほとんどの収集物は中国の古代の皇帝によって集められた高品質なものである。」
「この世界遺産は、中国の歴史を知るに当たって欠かせない要素をぎゅっと凝縮したスポットですよ。」
「はい。」
「中国史に関心のある方は、是非この世界遺産を訪れましょう。」
「わかりました。」
「この世界遺産を南下していくと、天安門もありますよ。」
「はい。」
「天安門と言えば、中華人民共和国の北京市東城区に位置する城門である。世界遺産・故宮(紫禁城)の正門であった門であり、楼上で毛沢東が中華人民共和国の建国宣言を行い、中華人民共和国の国章にもその姿が描かれるなど、中華人民共和国の象徴のひとつとされている。天安門広場とは「長安街」通りを隔てて隣接している。」
「政治的な世界遺産を巡りたい方は、セットで観光しましょう。」
「はい。」
「万里の長城のような、やや体力のいる世界遺産とセットにして、一日ですべての場所を観光しようとすると、かなり無理が生じますよ。」
「そうなんですか。」
「できれば、日を分けてじっくり見学できるようにするのがおススメです。」
「そうなんだ。」
「いずれも予備知識を頭に入れてから、見に行くのとそうでないのとでは、見応えがまったく違ってきますよ。」
「はい。」
「歴史の教科書を開くということができなかったとしても、できればラストエンペラーに関する映画などは、チェックしておいた方が良いかも知れませんね。」
「はい。」
「北京は日本よりも乾燥した気候ですよ。」
「そうなんだ。」
「喉を痛めやすい人は、水分補給に注意ですよ。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と観光~周口店の北京原人遺跡~
「「周口店の北京原人遺跡」は、中国旧石器時代の遺跡ですね。」
「そうですね。」
「周口店と言えば、中華人民共和国北京市房山区にある地名である。北京原人の骨や上洞人(じょうどうじん)の骨が発見された竜骨山があることで有名である。周辺は「周口店の北京原人遺跡」として1987年に世界遺産に登録された。石灰、石材の産地としても知られる。」
「1987年に世界遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「首都・北京市から南西に約50km、北京市房山区周口店村の、竜骨山という所にありますよ。」
「はい。」
「竜骨山と言えば、北京の南西郊外の「周口店」に饅頭形の小さな山、竜骨山がある。1927年に中国の学者、斐文中氏が指揮した発掘で、初めて北京原人の完全な頭蓋骨が発見された。」
「北京市房山区周口店村と言えば、北京原人遺跡は、北京市房山区周口店村の竜骨山の上にある。1920年代に、考古 学者はこの地での発掘を始め、約60万年前の原人頭蓋骨を発見し、それに北京原人と名付けた。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「竜骨山は、古くから、漢方薬の原料となる動物の骨を採取する場所として知られていましたよ。」
「そうなんですか。」
「20世紀に入ると、人類の歴史を辿る重要な遺跡の地として知られるようになりましたよ。」
「はい。」
「人類の祖先は、約200万年前にアフリカで誕生しましたね。」
「はい。」
「約100万年前にジャワ島に到達し(これがジャワ原人)、それから中国大陸に移ったと考えられていますよ。」
「そうなんですか。」
「ジャワ原人と言えば、ウジェーヌ・デュボワが1891年にオランダ領であったインドネシアジャワ島トリニールで発見した化石人類に対する通称である。年代は 170~180万年前ごろ。」
「ジャワ島と言えば、インドネシアを構成する島の一つである。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。」
「中国に到達したジャワ原人は、北京周辺に落ち着いて生活し、後にその原人遺跡が発見されたため、「北京原人」と名付けられましたよ。」
「そうなんだ。」
「北京原人(北京猿人)と言えば、中華人民共和国北京市房山県周口店竜骨山の森林で発見された化石人類である。学名はホモ・エレクトス・ペキネンシス。2012年現在はホモ・エレクトス (Homo erectus) の亜種として扱われる。北京原人を含むホモ・エレクトスが生きていた時代は更新世である。(近年の研究によると、上記の化石の年代は68~78万年前と推定されている。)周口店の北京原人遺跡はユネスコの世界遺産として登録されている。」
「最初の北京原人が居住していたのは、最近の研究(2012年時点)によると、今から約78万年前に遡ることがわかっていますよ。」
「はい。」
「1921年に、竜骨山の原人遺跡周辺は、発掘作業に入りましたよ。」
「はい。」
「1923年、スウェーデン人学者、ユハン・アンデショーンが、人類のものらしき歯の化石を発見しましたよ。」
「そうなんだ。」
「スウェーデン人学者、ユハン・アンデショーンと言えば、ユハン・グンナール・アンデショーン(1874年7月3日 - 1960年10月29日)はスウェーデンの地質学者、考古学者である。ウプサラ大学卒。中国名は安特生。第四期研究の地質学者で1906年にスウェーデン地質調査所所長に就任し1914年から1925年まで北京地質調査所に派遣、中国各地で調査し北京市周口店で北京原人の骨と彩色土器を発見し功績を挙げた。」
「更に1929年になると、今度は中国人学者、裴文中が、人類の完全な頭蓋骨を発見し、世界の考古学史に衝撃を与えましたよ。」
「そうなんですか。」
「中国人学者、裴文中と言えば、裴文中(はい ぶんちゅう)は中華人民共和国の考古学者、生物学者である。字は明華。上洞人の骨や北京原人の頭蓋骨を発見し、中国の旧石器考古学と第四期哺乳動物学の基礎を築いた。輔仁大学(ふじんだいがく)教授、中国科学院メンバー。」
「その後も発掘作業は進み、これまでに、男女40人からなる人々の頭骨、上腕骨、腿骨、下顎骨、骨の砕骨などが発見されていますよ。」
「はい。」
「裴文中が発見して世界を驚かせた原人の頭蓋骨は、1941年、日中戦争のさなかに紛失しましたよ。」
「そうなんですか。」
「日中戦争と言えば、日中戦争は、1937年(昭和12年、民国紀元26年)から1945年まで、大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが、1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを大東亜戦争とした。 中国側は、抗日戦争と呼称している。」
「それ以来、行方不明のままで、いまだ発見には至っていませんよ。」
「はい。」
「1920年代からの発掘作業で発見されたものは、「そこに人類がいた」という証拠だけでなく、人が生活していた跡も多く見つかっていますよ。」
「はい。」
「例えば、火を使った跡、石器、装飾品などですね。」
「そうなんだ。」
「特に、火を使って生活をしていたことが確認されたことは、そこには人間としての営みがあったことを、何よりも物語っていますね。」
「はい。」
「これらの原人遺跡が、人類史を辿る貴重な資料になっていますよ。」
「はい。」
「世界遺産に登録されるのも、当然のことでしょう。」
「わかりました。」
「発掘された貴重な資料が展示されている周口店遺跡博物館の前には、「北京猿人」(北京原人のこと)の巨大な復元像がありますよ。」
「そうなんだ。」
「周口店遺跡博物館と言えば、北京周口店遺跡博物館は世界文化遺産であり、国の定めるAAAA級の観光地になっている。また全国重要文化財にも指定されている。北京市房山区周口店鎮に位置し、北京の市街地から約48kmのところにある。」
「その顔は、まだ現在の人間には程遠い、まさに「猿と人との中間」のような印象ですね。」
「はい。」
「私たちのはるか昔の姿がこれである、という目で見ると、不思議な気がしてきますね。」
「はい。」
「現在でも、中国では、周口店の北京原人遺跡を、科学的・考古学的考察に検証を続けていますよ。」
「そうなんだ。」
「その中で、北京原人が直立歩行をしていたこと、道具を使って料理をし、食生活を行っていたことなどが確認されていますよ。」
「はい。」
「これから先も、この原人遺跡は、新たな史実を私たちにもたらしてくれるでしょう。」
「そうなんだ。」
「中国に旅行を予定されている方がいれば、歴史的な新たな発見に遭遇できるかも知れませんね。」
「はい。」
中国の世界遺産と観光~平遥古城~
「「平遥古城」は、明・清時代には、中国金融の中心地として発展した城郭都市ですね。」
「はい。」
「平遥古城と言えば、中国山西省晋中市平遥県の古い城郭都市である。省都・太原から南へ100キロの地点にある。1997年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。清代には山西商人が活躍する中国の金融の中心地であった。」
「清と言えば、清(しん)は、清朝(しんちょう)、清国(しんこく)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。」
「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱 元璋(しゅ げんしょう)が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」
「1997年に世界遺産として登録されましたよ。」
「そうなんだ。」
「平遥古城の基礎が造られたのは、西周宣王の時代(紀元前827~782年)のことですよ。」
「はい。」
「西周宣王と言えば、中国古代、西周末期の周王である。生没年不詳。在位、前827‐前782年。周の厲(れい)王が暴政を行ったため位を追われ、共和の制(前841)が敷かれたが、やがて厲王の太子の姫静が成人すると、周公と召公の後押しで即位した。これが宣王である。宣王は諸侯をなつけるとともに北西のけんいん、南東の淮夷(わいい)など異民族の討伐を行って、西周王朝の中興に成功したとされる。」
「その後、1370年明時代に拡張され、城壁や現存する平遥古城を築きましたよ。」
「はい。」
「現存の平遥古城は、歴史600年以上にもなりますよ。」
「そうなんだ。」
「その間に、20回以上の修繕工事を行っていますよ。」
「そうなんですか。」
「しかし、現存する中国の古城の中でも最も保存状態が良く、世界遺産だけでなく、中国の重点保護文化財にも指定されていますよ。」
「はい。」
「平遥古城は、山西省晋中市平遥県にありますよ。」
「はい。」
「山西省晋中市平遥県と言えば、平遥県は中華人民共和国山西省晋中市に位置する県である。県人民政府所在地は古陶鎮。清代には山西商人が活躍する中国の金融の中心地であった。」
「この都市が中国全土に影響を与える都市として脚光を浴びたのは、明・清時代ですね。」
「そうなんだ。」
「この時代に、平遥は、金融都市として栄えることになりましたよ。」
「はい。」
「1824年には、「日昇昌票号」ができましたよ。」
「はい。」
「日昇昌票号と言えば、中国の旧式為替銀行で、別に匯兌荘(わいだそう)、票荘ともいうが、山西商人の経営するものが有力であったから、山西票号として知られる。」
「これは、中国で最も古い金融機関で、設立後、中国国内400ヶ所以上に事業が拡大されましたよ。」
「そうなんですか。」
「驚くことに、ニューヨークにまで進出し、成功を収めましたよ。」
「そうなんだ。」
「それくらい、金融事業で力を持った日昇昌は、後にできる多くの票号の雛型になり、平遥ではあちこちに票号ができることになりますよ。」
「はい。」
「票号と言えば、中国の旧式為替銀行で、別に匯兌荘(わいだそう)、票荘ともいうが、山西商人の経営するものが有力であったから、山西票号として知られる。」
「日昇昌と言えば、中国の旧式為替銀行で、別に匯兌荘(わいだそう)、票荘ともいうが、山西商人の経営するものが有力であったから、山西票号として知られる。古くから商業の発達していた中国では、この種の業務も古くから存在したはずであるが、文献的に確実なのは19世紀初め、山西省平遥県に本店をもつ日昇昌が最初である。」
「そこはまさに、中国の「ウォール街」ですね。」
「そうなんだ。」
「しかし、清が辛亥革命により失脚し、それ以降、平遥の情勢も不安定になりますよ。」
「はい。」
「辛亥革命と言えば、1911年(宣統3年)から1912年(民国元年)にかけて、中国で発生した革命である。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された。」
「現在で言う不良債権の回収ができなくなるなど、金融業を続けるには困難になっていきましたよ。」
「はい。」
「やがて、平遥の金融市場全体が衰退し、20世紀には、貧困地域にまで転落しましたよ。」
「そうなんですか。」
「そんな貧困地域・平遥は、世界遺産に登録されたことにより息を吹き返しましたよ。」
「はい。」
「現在は、観光事業で栄える都市として生まれ変わりましたよ。」
「はい。」
「平遥古城は、全長約6.5kmの城壁に囲まれていますよ。」
「そうなんだ。」
「城内面積は、約2.25平方kmですよ。」
「はい。」
「非常に小規模な都市と言えますね。」
「そうですね。」
「しかし、この中には、学校も病院もあり、城内だけで都市機能が完備されていますよ。」
「そうなんだ。」
「一度その城壁内に入ると、そこには、驚くべき光景が待っていますよ。」
「そうなんですか。」
「その街並みが、いかに大切に保存されてきたかがよくわかるくらい、現代中国とは全く違う時代を見ているような気分になるでしょう。」
「はい。」
「「レトロ」という表現がこれほどぴったりくるものか、という感じで、時代劇のセットと見紛うほどですね。」
「そうなんだ。」
「城内では、他の都市とは完璧に違う空気を作り上げていますよ。」
「はい。」
「まるで人々を、明清時代にタイムスリップしたような錯覚に陥らせますよ。」
「はい。」
「中国には、現在でも歴史的町並みが多く保存された場所がありますよ。」
「そうなんですか。」
「しかし、平遥古城ほど完璧ではありませんよ。」
「はい。」
「旧金融街ということもあり、街中の活気も印象的ですね。」
「そうなんだ。」
「平遥は、現中国の首都・北京から南西方面に600km下ったところにありますよ。」
「はい。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「大陸性気候で降水量が少なく、夏でも30度を越えず、一年を通じて比較的過ごしやすい気候と言えますよ。」
「いいですね。」
「日本の蒸し暑い夏から抜け出して訪れてみる、プランもいいかも知れませんね。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と観光~頤和園~
「「頤和園」は、北京市から西へ15kmの所にある、中国の歴代皇帝が避暑地として利用した大庭園ですね。」
「そうなんですか。」
「頤和園と言えば、頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園である。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「1998年に、世界遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「その庭園の規模は、290万平方kmにもなりますよ。」
「はい。」
「園内には、数々の山や建築物がありますよ。」
「そうなんだ。」
「「頤和園」の起源は1153年ですよ。」
「はい。」
「金王朝第4代皇帝・海陵王が、この地に行宮(皇帝が一時的に身を寄せる場所)を造ったのが始まりですよ。」
「そうなんだ。」
「行宮(皇帝が一時的に身を寄せる場所)と言えば、頤和園は、北京市から西へ15kmのところにある、中国の歴代皇帝が避暑地として利用した大庭園です。 頤和園の起源は1153年にあり、金 王朝第4代皇帝・海陵王がこの地に行宮(皇帝が一時的に身を寄せる場所)を造った。」
「金王朝第4代皇帝・海陵王と言えば、海陵王(かいりょうおう)は、金の第4代皇帝である。諱は迪古乃(テクナイ/ディグナ)。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・斡本(あつほん)(宗幹)の次男。殺害の後に廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される。正妻は女真貴族の徒単斜也の娘の従単皇后。」
「その当時は、「頤和園」ではなく「清●園」と命名されていましたよ。」
「はい。」
「清●園が皇室御用達の避暑地として定着したのは、明第11代皇帝・正徳帝の時ですよ。」
「はい。」
「明第11代皇帝・正徳帝と言えば、正徳帝(せいとくてい)は明朝の第11代皇帝である。諱(いみな)は厚照(こうしょう)。廟号(びょうごう)は武宗 (ぶそう)。日本では治世の元号から一般に正徳帝と称されている。弘治帝が立て直した国勢を再び衰退させ、明朝滅亡の要因を作り出した皇帝であると言える。」
「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱 元璋(しゅ げんしょう)が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」
「清●園には、やがて多くの建物が建立されましたよ。」
「そうなんだ。」
「1494年には、弘治帝の乳母・助聖夫人羅が円静寺を建立しましたよ。」
「はい。」
「円静寺と言えば、1497年、円静寺がつくられて、南の西湖とあわせて好山園とよばれるようになり、1750年、清の乾隆帝が寺を改築し、王室庭園として整備して清園と称されました。」
「弘治帝の乳母・助聖夫人羅と言えば、清●(さんずい+けものへん+奇)園が皇室御用達の避暑地として定着したのは、明第11代皇帝・正徳帝の時です。 清●(さんずい+けものへん+奇)園にはやがて多くの建物が建立され、1494年には弘治帝の乳母・助聖夫人羅が円 静寺を建立した。」
「弘治帝と言えば、弘治帝(こうちてい)は明朝の第10代皇帝である。諱(いみな)は祐●(ゆうとう)、廟号(びょうごう)は孝宗(こうそう)。日本では治世の元号から一般には弘治帝と称される。」
「そして清代に入ると、乾隆帝が大改修を行い、多くの施設が造営されましたよ。」
「そうなんですか。」
「乾隆帝と言えば、乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝である。清王朝の最盛期を創出する。諱(いみな)は弘暦(こうれき)、廟号(びょうごう)は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。」
「清と言えば、清(しん)は、清朝(しんちょう)、清国(しんこく)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。」
「このように、12世紀から庭園には様々な施設が造られましたよ。」
「はい。」
「敷地内は、中国皇室の繁栄を象徴するかのように豪華になっていきましたよ。」
「はい。」
「その庭園には、苦難の歴史もありましたよ。」
「そうなんですか。」
「実は1860年のアヘン戦争の際に、英仏連合軍によって、清●園は破壊されましたよ。」
「そうなんだ。」
「アヘン戦争と言えば、阿片戦争は、清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、アヘンの密輸が原因となった戦争である。アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも。」
「しかし、歴代の中国皇室が清●園に思いを馳せてきた伝統は受け継がれましたよ。」
「はい。」
「破壊された後、乾隆帝は3千万両もの費用をかけて、清●園の復興再建を行いましたよ。」
「はい。」
「乾隆帝と言えば、乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝である。清王朝の最盛期を創出する。諱(いみな)は弘暦(こうれき)、廟号(びょうごう)は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。」
「その過程にあった1888年に、庭園の名称が「清●園」から現在の「頤和園」になりましたよ。」
「そうなんだ。」
「20世紀を間近に控える1895年に、完全復興を果たしましたよ。」
「はい。」
「しかし、政権が崩壊する度に、中国大陸の要都市である北京では、あちこちで戦争による破壊的行為がありましたよ。」
「はい。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「名前が「頤和園」になってからも、戦争による被害から逃れることができませんでしたよ。」
「そうなんだ。」
「1911年には清が崩壊し、一時、清最後の皇帝・溥儀の私用地になりましたよ。」
「はい。」
「ラスト・エンペラーである「溥儀(ふぎ)」と言えば、中華圏最後の皇帝(ラストエンペラー)として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝と称された。清朝滅亡後に日本政府の支持のもと満州国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳帝と称した。満洲国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜となった。」
「その後、中国政府に所有権が移りましたよ。」
「はい。」
「「頤和園」では相変わらず、改修・修繕が繰り返し行われることになりましたよ。」
「そうなんですか。」
「「頤和園」が公園として整備されたのは、1953年ですよ。」
「はい。」
「それ以降は、戦争により敷地が破壊されることなく、現在に至りますね。」
「はい。」
「「頤和園」は、中国歴代皇帝とその一族の、心の癒し場所であったに違いありませんね。」
「そうなんだ。」
「そして、その愛着によって、何度破壊されても復興を果たしてきましたよ。」
「はい。」
「そんな中国の受難の歴史を持つ「頤和園」が世界遺産に認定されるのは、当然の流れだったと言えるでしょう。」
「わかりました。」
「現在の頤和園は、世界遺産に登録されてから観光客も増え、観光名所としての繁栄を遂げていますよ。」
「はい。」
「清代の古い街並みを復元した「蘇州街」、西太后が政務を行っていた仁寿殿、万寿山山頂にある仏香閣、そしてそこから眺める昆明湖の美しい景色など、見所に溢れていますよ。」
「そうなんですか。」
「昆明湖と言えば、別名てん池。大きさは琵琶湖の約半分で胃袋に似た形をしており、高原の真珠にたとえられる美しい湖である。北側湖畔には木造3層の大観楼があり、ここから漁をする帆船などおだやかな漁村風景が楽しめる。」
「仏香閣と言えば、仏香閣は、杭州の六和塔を模して造られた願和園の中心的建造物である。 高さが36mの木造の塔。八面体の形が特徴。 時間の関係上、塔までは上がりませんでしたが、 内部には、西太后が焼香を行ったという仏像があるそうです。」
「万寿山と言えば、万寿山は、中国、北京の北西郊にある景勝地である。1750年乾隆帝が母の万寿を祝って築造した離宮があったが、アロー戦争末の1860年英仏連合軍によって円明園とともに焼かれた。のち西太后が改修して頤和(いわ)園と名付け,仏香閣その他諸殿が建てられた。」
「仁寿殿と言えば、頤和園の正門である「東宮門」を入ると「仁寿殿」があります。皇帝の請願をお聞きになられたりする執務室です。」
「西太后と言えば、西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝(かんぽうてい)の妃で、同治帝(どうちてい)の母。清末期の権力者。」
「蘇州街と言えば、頤和園の北のはずれ、主要な建造物が南面して並ぶ万寿山の北の麓に、「蘇州街」と言われる一角があります。長さ300m程、幅20m程の水路に沿って、江南地方の水郷 都市をモチーフにした街並をつくっています。」
「古くから中国の高貴な人々が愛した場所に行き、そこにある建物や湖を眺めると、それだけで、華やかな気分になれそうですね。」
「はい。」
中国の世界遺産と観光~天壇~
「天壇は、北京市内から約15kmの所にあり、1998年に世界遺産に認定されましたよ。」
「はい。」
「天壇と言えば、天壇(てんだん)は中華人民共和国北京市東城区に位置する史跡で、明清代の皇帝が天に対して祭祀(祭天)を行った宗教的な場所(祭壇)である。敷地面積は約273万平方m。1998年よりユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「「天壇」と聞くと、建築物のようなものを思い浮かべると思いますね。」
「そうですね。」
「実際に中国では、「壇=天と交信する場所」と、その周辺を囲む庭園を含めた一帯が、「天壇」や「天壇公園」と呼ばれていますよ。」
「そうなんですか。」
「天壇公園と言えば、中国の首都・北京にある公園である。昔、天を祭った場所で、明・清の歴代皇帝は毎年正月の上辛日に、この公園で天に五穀豊穣を祈った。総面積は270万m2で、故宮の4倍を超える。鳥瞰(ちょうかん)すると、建物は「回」の字型に配されていることがわかる。内外のふたつの壁が敷地を囲んで、外壇(外壁)の長さは6416m、内壇(内壁)の長さは3292mある。外壇の門は、当初、皇帝が祭天の際に出入りした正門(西門)だけで、内壇には東西南北に置かれた四大門の「天門」があった。」
「この場所に天を祀る祭壇が造られたのは、1420年、明の永楽帝の時ですよ。」
「はい。」
「明の永楽帝と言えば、永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝である。諱(いみな)は棣(てい)。廟号(びょうごう)は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝(かせいてい)の時に成祖と改称された。諡号(しごう)は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。」
「明と言えば、明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。朱 元璋(しゅ げんしょう)が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。」
「建立当時は、「天地壇」(天壇と地壇が合体されたもの」と呼ばれていましたよ。」
「そうなんだ。」
「地壇と言えば、地壇(ちだん)とは中華人民共和国北京市東城区の安定門外にある史跡で、明清代の皇帝が地の神に対して祭祀を行った宗教的な場所(祭壇)である。」
「天地壇(天壇と地壇が合体されたもの)と言えば、中国では、「壇=天と交信する場所」と、その周辺を囲む庭園を含めた一帯が、「天壇」や「天壇公園」と呼ばれています。この場所に天を祀る祭壇が造られたのは1420年、明の永楽帝の時です。建立当時は、「天地壇」(天壇と地壇が合体されたもの」と呼ばれていましたが、1530年に四郊分祀(しこうぶんさい・壇を分割すること)が施行され、天・地・日・月の壇は別々に建立されることになりました。そして、それぞれの場所で、天との交流を図ろうとしたのです。」
「1530年に四郊分祀(しこうぶんさい・壇を分割すること)が施行され、天・地・日・月の壇は別々に建立されることになりましたよ。」
「はい。」
「四郊分祀(しこうぶんさい・壇を分割すること)と言えば、建立当時は、「天地壇」(天壇と地壇が合体されたもの」と呼ばれていましたが、1530年に四郊分祀(しこうぶんさい・壇を分割すること)が施行され、天・地・日・月の壇は別々に建立されることになりました。そして、それぞれの場所で、天との交流を図ろうとしたのです。」
「そして、それぞれの場所で、天との交流を図ろうとしましたよ。」
「そうなんだ。」
「この時代には、皇帝が宇宙と交信することが、宗教上、また帝国安泰のために、非常に重要とされていましたよ。」
「そうなんですか。」
「したがって、建築物にも中国で解釈された宇宙観が、ふんだんに組み込まれていますよ。」
「はい。」
「例えば、中国では、「円=天」と解釈されていたので、「祈年殿」は、三層の丸屋根を持つ円錐の形をしていますよ。」
「そうなんだ。」
「北京のシンボル的存在で中国最古の祭壇とされる「祈年殿」と言えば、天壇は、北京市内から約15kmのところにあり、1998年に世界遺産に認定されました。この時代には、皇帝が宇宙と交信することが、宗教上、また帝国安泰のために、非常に重要とされていました。したがって、建築物にも中国で解釈された宇宙観がふんだんに組み込まれています。例えば、中国では、「円=天」と解釈されていたので、「祈年殿」は、三層の丸屋根を持つ円錐の形をしています。」
「天壇公園は、敷地約273万平方kmありますよ。」
「はい。」
「その中に、本来の「天壇」である「圜丘壇」、北京のシンボル的存在で中国最古の祭壇とされる「祈年殿」、歴代皇帝の位牌が安置され、天に属する建物とされる「皇穹宇」がありますよ。」
「はい。」
「歴代皇帝の位牌が安置され、天に属する建物とされる「皇穹宇」と言えば、天壇公園には、敷地約273万平方kmの中に、本来の「天壇」である「圜丘壇」、北京のシンボル的存在で中国最古の祭壇とされる「祈年殿」、歴代皇帝の位牌が安置され、天に属する建物とされる「皇穹宇」、更に、祭事のたびに皇帝が宿泊していた斎宮や、皇帝側近の建物である神楽署などがあります。」
「本来の「天壇」である「圜丘壇」と言えば、天壇公園には、敷地約273万平方kmの中に、本来の「天壇」である「圜丘壇」、北京のシンボル的存在で中国最古の祭壇とされる「祈年殿」、歴代皇帝の位牌が安置され、天に属する建物とされる「皇穹宇」、更に、祭事のたびに皇帝が宿泊していた斎宮や、皇帝側近の建物である神楽署などがあります。」
「さらに、祭事のたびに皇帝が宿泊していた斎宮や、皇帝側近の建物である神楽署などがありますよ。」
「はい。」
「皇帝側近の建物である神楽署と言えば、天壇公園には、敷地約273万平方kmの中に、本来の「天壇」である「圜丘壇」、北京のシンボル的存在で中国最古の祭壇とされる「祈年殿」、歴代皇帝の位牌が安置され、天に属する建物とされる「皇穹宇」、更に、祭事のたびに皇帝が宿泊していた斎宮や、皇帝側近の建物である神楽署などがあります。」
「祭事のたびに皇帝が宿泊していた斎宮と言えば、天壇公園には、敷地約273万平方kmの中に、本来の「天壇」である「圜丘壇」、北京のシンボル的存在で中国最古の祭壇とされる「祈年殿」、歴代皇帝の位牌が安置され、天に属する建物とされる「皇穹宇」、更に、祭事のたびに皇帝が宿泊していた斎宮や、皇帝側近の建物である神楽署などがあります。」
「最も中国の宇宙観が反映された建築は、やはり圜丘壇ですね。」
「そうなんですか。」
「圜丘壇は、中国陰陽思想の中で最も重要とされる数字、「9」が全てにおいてポイントになっていますよ。」
「はい。」
「例えば、石でできた手すりの数は、下層180、中層108、上層72で、全て9の倍数になっていますよ。」
「そうなんだ。」
「さらに、これらを全て足すと360になり、陰暦の日数とぴったり一致しますよ。」
「そうなんですか。」
「このように、9の倍数、9に纏わる数字が基となり、圜丘壇は造られていますよ。」
「はい。」
「このことから、圜丘壇が、天との交信のために、いかに工夫して造られたかがよくわかりますね。」
「はい。」
「皇穹宇には、「宇宙」という単語の一文字が使われていますよ。」
「そうなんだ。」
「天に属する建物とされてきましたよ。」
「そうなんですか。」
「「天壇」として世界遺産登録された敷地内は、中国の宇宙観を見られる、まさに、ハイライトと呼べるでしょう。」
「わかりました。」
「天壇がまだ皇帝に属していた頃、そこは皇帝のみが宇宙との交信を許されたパワースポットでしたよ。」
「はい。」
「今では、中国最大の観光地である北京の中でも、一番の見所として、一般に広く公開されていますよ。」
「はい。」
「天壇に行く観光客は、一度その場所に止まると、不思議な感覚におそわれると言いますよ。」
「そうなんですか。」
「一種の神秘体験のような感じですよ。」
「そうなんだ。」
「中国旅行で北京に行かれる方は、天壇まで足を伸ばすと、並々ならぬエネルギーを得られるかも知れませんよ。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と観光~雲崗石窟~
「「雲崗石窟」は、山西省台同市の武周山麓にある石窟群ですね。」
「はい。」
「武周山と言えば、中国三大石窟の一つに数えられる雲崗石窟は、華北最大の石窟寺院であり、大同の西約16kmにある武周山の麓に築かれている。」
「山西省台同市と言えば、大同市(だいどうし)は、中国山西省北部に位置する地級市である。 省都の太原市に次ぐ山西省第二の都市である。大同市は山西省の最北端、黄土高原の東北部に位置している。」
「雲崗石窟と言えば、雲崗石窟(うんこうせっくつ)は、中華人民共和国山西省大同市の西方20kmに所在する、東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院である。「雲崗石窟」としてユネスコの世界遺産 (文化遺産) に登録されている。雲岡と表記する事も有る。」
「2001年に世界遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「それ以前の1961年には、中国の重点文化財にも指定されていますよ。」
「そうなんだ。」
「雲崗石窟は、古くから大切にされてきた所ですよ。」
「はい。」
「中国では「三大石窟」(他:敦煌の「莫高窟」、洛陽の「龍門石窟」)の一つにも挙げられていますよ。」
「そうなんですか。」
「洛陽の龍門石窟と言えば、龍門石窟(りゅうもんせっくつ)は中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院である。「龍門石窟」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。」
「敦煌の莫高窟と言えば、莫高窟(ばっこうくつ)は中華人民共和国甘粛省敦煌市(とんこうし)の近郊にある仏教遺跡である。この中から出た敦煌文書でも有名である。敦煌石窟(とんこうせっくつ)・敦煌千仏洞(とんこうせんぶつどう)とも。1961年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。」
「「雲崗石窟」の歴史は、4世紀に始まりましたよ。」
「はい。」
「北魏(386~534年)の第四代文成帝は、仏教を国教とし、中国全土に広めようという意思を固めましたよ。」
「はい。」
「北魏(386~534年)の第四代文成帝と言えば、北魏(386~534年)の第四代文成帝(在位452~465年)は、仏教を国教とし、中国全土に広めようという意思を固め、五窟の大仏を造らせた。」
「北魏(386~534年)と言えば、北魏(ほくぎ、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑(せんぴ)族の拓跋氏(たくばつし)によって建てられた国である。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。国号は魏であるが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。」
「そして、当時の僧官・曇曜が、台同市にある武周山を上奏し、石窟を開きましたよ。」
「そうなんだ。」
「僧官・曇曜と言えば、当時の僧官・曇曜が、台同市にある武周山を上奏し、石窟を開きました。これが、現在の第16~20窟で、460年に完成しました。それ以降、第1~15窟など、次々に石窟を造営していき、5世紀終わりまでに、50もの石窟を次々に築きました。この時期は、別名「雲崗期」とも呼ばれ、優れた宗教芸術が多く生まれた時代として、中国仏教彫刻史に刻まれました。その中で、現存するのは53の石窟、そして、51,000点以上にものぼる仏像です。」
「武周山と言えば、中国三大石窟の一つに数えられる雲崗石窟は、華北最大の石窟寺院であり、大同の西約16kmにある武周山の麓に築かれている。」
「これが、現在の第16~20窟で、460年に完成しましたよ。」
「はい。」
「それ以降、第1~15窟など、次々に石窟を造営していきましたよ。」
「はい。」
「5世紀終わりまでに、50もの石窟を次々に築きましたよ。」
「そうなんだ。」
「この時期は、別名「雲崗期」とも呼ばれ、優れた宗教芸術が多く生まれた時代として、中国仏教彫刻史に刻まれましたよ。」
「はい。」
「雲崗期と言えば、当時の僧官・曇曜が、台同市にある武周山を上奏し、石窟を開きました。これが、現在の第16~20窟で、460年に完成しました。それ以降、第1~15窟など、次々に石窟を造営していき、5世紀終わりまでに、50もの石窟を次々に築きました。この時期は、別名「雲崗期」とも呼ばれ、優れた宗教芸術が多く生まれた時代として、中国仏教彫刻史に刻まれました。その中で、現存するのは53の石窟、そして、51,000点以上にものぼる仏像です。」
「その中で、現存するのは53の石窟、そして、51,000点以上にものぼる仏像ですよ。」
「多いですね。」
「「雲崗石窟」として世界遺産に登録されているのは、山麓南部の、全長約1kmの地域ですよ。」
「はい。」
「この地域に、53の石窟や数多くの仏像が集中していますよ。」
「はい。」
「「右を見ても左を見ても仏像だらけ」といった様子ですね。」
「そうなんですか。」
「中国彫刻史における一時代を凝縮した風景が、人々を待っていますよ。」
「はい。」
「「雲崗石窟」を大別すると、まず、北魏時代の第16窟~20窟、そして次が「造営中期」と呼ばれ、第1~15窟が集中して造られていますよ。」
「はい。」
「造営中期と言えば、雲崗石窟の造営中期の石窟群(1~15窟)は470年前後から494年頃までに造営されました。」
「北魏(386~534年)と言えば、北魏(ほくぎ、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑(せんぴ)族の拓跋氏(たくばつし)によって建てられた国である。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。国号は魏であるが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。」
「その中で、第9~13窟は、「五華洞」とも呼ばれ、色彩豊かで華やかな石窟として知られていますよ。」
「そうなんですか。」
「五華洞と言えば、雲崗石窟の第9窟から第13窟までは、清代晩期には彩色絵が施されたため、5洞窟とも華麗を極め、人々から「五華洞」と称されている。「五華洞」は2組に分かれており、それぞれ第9、第10、第11、第12と第13窟に当たっている。」
「更に、第21~45窟が「西部小窟群」と呼ばれている石窟群地域ですよ。」
「はい。」
「西部小窟群と言えば、第21~45窟が「西部小窟群」と呼ばれている石窟群地域です。」
「これらは主に、開窟された時代やその建築様式の違いなどから、分類されたものと思われますね。」
「はい。」
「「雲崗石窟」の中で、最も象徴的な仏像と言われるのが、第20窟にある「結跏趺坐像」と呼ばれる大仏ですね。」
「そうなんですか。」
「結跏趺坐像と呼ばれる大仏と言えば、「雲崗石窟」の中で、最も象徴的な仏像と言われるのが、第20窟にある「結跏趺坐像」と呼ばれる大仏です。この大仏は、北魏の初代道武帝をモデルにしていると言われています。その大仏の顔を見ると、柔和で落ち着いた表情をしており、また垂れ下がるような長い耳たぶが非常に特徴的で、日本で見られる大仏とは全く印象が違います。」
「この大仏は、北魏の初代道武帝をモデルにしていると言われていますよ。」
「はい。」
「北魏の初代道武帝と言えば、道武帝(どうぶてい)は、北朝北魏の初代皇帝である。姓諱は拓跋珪(たくばつ けい)。別名は渉珪、什翼圭、翼圭、開。」
「その大仏の顔を見ると、柔和で落ち着いた表情をしていますよ。」
「はい。」
「垂れ下がるような長い耳たぶが非常に特徴的ですね。」
「そうなんだ。」
「日本で見られる大仏とは、全く印象が違いますよ。」
「そうなんですか。」
「像全体が山麓を彫って造られていて、ほぼ単色ですよ。」
「はい。」
「第16~20窟には、全て大仏が主像としてそびえていますよ。」
「そうなんだ。」
「それぞれが、歴代皇帝をモチーフにして造られたと言われていますよ。」
「はい。」
「雲崗石窟の仏教芸術を見ると、開窟初期は、インド仏教の様式が多く取り入れられていますよ。」
「はい。」
「インド仏教と言えば、インドの仏教は、仏教の開祖の釈迦牟尼(しゃかむに)(ガウタマ・シッダールタ)がネパールルンビニに生まれたことに始まるとされる。インドは仏教発祥の地であるが、現代では、ほとんど消滅してしまった。」
「結跏趺坐像もまた、インドの仏教芸術から多くの影響を受けていると言われていますね。」
「そうなんだ。」
「インド仏教芸術がギリシャ文明から影響を受けているため、どことなく仏像も彫りの深い顔立ちをしていますよ。」
「はい。」
「ギリシャ文明と言えば、古代ギリシア文明は紀元前2,000年頃のエーゲ海文明(クレタ・ミケーネの青銅器文明)から始まり、ペルシア戦争後の紀元前5世紀にアテナイ(アテネ)とスパルタの都市国家(ポリス)で最盛期に達しました。トロイア文明の中心地である小アジアのトロイ遺跡(イリオス遺跡)は伝説的なトロイ戦争(紀元前12世紀頃)の舞台であり、ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘されました。」
「しかし、第1~15窟が造営される頃になると、インド様式から徐々に中国様式にその志向が変わってきましたよ。」
「はい。」
「目元が切れ長で、私たちが思い描く仏像に近い印象になっていますよ。」
「そうなんだ。」
「雲崗石窟が開窟され、既に1500年もの歳月が流れていますよ。」
「はい。」
「そこにある多様な仏教芸術の威厳は、決して褪せることなく、現在に至っていますよ。」
「わかりました。」
中国の世界遺産と観光~五台山~
「仏教の聖地として名高い五台山は、山西省五台県に位置する峰群ですよ。」
「はい。」
「山西省五台県と言えば、山西省五台県の五台山には途絶えることなき信者の列が続く。チベットからの参拝者も、現在、 五台山を訪れる観光客は年間、延べ200万人を超える。その中で仏教の信徒が占める割合はかなり大きい。」
「仏教の聖地として名高い五台山と言えば、五台山(ごだいさん)は、中国山西省東北部の五台県にある古くからの霊山である。標高3,058m。仏教では、文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。旧字表記では、五臺山。別名は、清涼山。2009年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰といい、このうち最も高い峰が葉頭峰で、標高3,058mあります。」
「2009年に世界遺産として登録されましたよ。」
「はい。」
「五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰と言いますよ。」
「そうなんですか。」
「翠岩峰と言えば、五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰である。中台 翠岩峰。」
「葉頭峰と言えば、五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰である。北台 葉頭峰(最高峰。海抜3058m)。」
「錦綉峰と言えば、五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰である。南台 錦綉峰。」
「挂月峰と言えば、五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰である。西台 挂月峰。」
「望海峰と言えば、五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰である。東台 望海峰。」
「仏教の聖地として名高い五台山と言えば、五台山(ごだいさん)は、中国山西省東北部の五台県にある古くからの霊山である。標高3,058m。仏教では、文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。旧字表記では、五臺山。別名は、清涼山。2009年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。五台山を造る峰は、それぞれ望海峰、挂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰といい、このうち最も高い峰が葉頭峰で、標高3,058mあります。」
「このうち最も高い峰が、葉頭峰で、標高3,058mありますよ。」
「はい。」
「「五台山」という名称は、これら5つの峰の山頂が全て平らであることから名づけられましたよ。」
「そうなんですか。」
「五台山は、避暑地としても古くから広く知られていましたよ。」
「はい。」
「「清涼山」という別名もありますよ。」
「はい。」
「五台山は、中国四代仏教名山の一つ(他:普陀山、峨眉山、九華山)であり、また中国三大霊山(他:峨眉山、天台山)でもありますね。」
「そうなんだ。」
「霊山と言えば、霊山(れいざん、りょうぜん)とは、神聖視され崇拝の対象となる山である。」
「天台山と言えば、天台山(てんだいさん)は、中国浙江省東部の天台県の北方2kmにある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。中国三大霊山の一つ。」
「九華山と言えば、九華山(きゅうかさん)は、中国・安徽省(あんきしょう)池州市(ちしゅう-し)青陽県(せいよう-けん)にある山である。九華山は、中国の仏教で言うところの聖地で、中国四大仏教名山(仏教の聖地。五台山、九華山、峨眉山、普陀山)の一つである。地蔵菩薩の霊場とされる。」
「峨眉山と言えば、峨眉山(がびさん)は中国・四川省にある山である。道教や中国の仏教で言うところの聖地で、中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)や中国四大仏教名山(仏教の聖地。五台山、九華山、峨眉山、普陀山)の一つである。26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされる。」
「普陀山と言えば、普陀山(ふださん)は中華人民共和国浙江省・舟山群島にある島である。中国四大仏教名山(仏教の聖地。五台山、九華山、峨眉山、普陀山)の一つで、観音菩薩が祀られている。年間360万人を超える観光客が訪れる。また、道教や中国の仏教で言うところの聖地で、中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)の一つである。」
「歴代の中国皇帝やチベットのダライ・ラマも、ここを訪れていますよ。」
「はい。」
「チベットのダライ・ラマと言えば、ダライ・ラマは、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡である。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。」
「チベットと言えば、チベットは、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は、きょうらい山脈(さんみゃく)に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称である。」
「日本からも多くの僧侶が、仏教を極めるためにここを訪れていますよ。」
「そうなんですか。」
「いかにこの山が人々に尊ばれているか、おわかり頂けると思いますね。」
「はい。」
「五台山の始まりは、後漢代(25~200年)と言われていますよ。」
「はい。」
「後漢代(25~200年)と言えば、後漢(ごかん、25年 - 220年)は中国の王朝である。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽(おうもう)に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と紛らわしいので、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。」
「その時代に、インドから二人の僧侶が、中国に仏教を伝えましたよ。」
「はい。」
「そして、その僧侶たちが五台山を訪れ、そこを文殊菩薩の霊場としましたよ。」
「そうなんだ。」
「霊場と言えば、霊場とは神仏の霊験あらたかな場所の意で、神社・仏閣などの宗教施設、ゆかりの地など、神聖視される場所をいう。古くから信仰の対象になっており、現在でもお遍路さんや修験者などの往来の多いところがある。恐山、比叡山、高野山など数多くの霊場が存在する。」
「文殊菩薩と言えば、文殊菩薩、梵名マンジュシュリーは、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊である。一般に智慧を司る仏とされる。」
「霊山としての歴史が始まりましたよ。」
「はい。」
「それ以降、次々に寺院が建てられ、20世紀迄には、200以上の寺院が建立されましたよ。」
「はい。」
「そのうち、現存するのは、台内(峰々の内側)に39か所、台外(峰々の外側)に8か所の、合計47か所ですよ。」
「そうなんだ。」
「1406年には、チベット仏教の僧侶がこの山に招かれましたよ。」
「はい。」
「チベット仏教と言えば、チベット仏教は、チベットを中心に発展した仏教の一派である。チベット仏教は、根本説一切有部の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。」
「それをきっかけに、チベット仏教も普及することになりましたよ。」
「はい。」
「後に、中国・チベット両仏教の聖地となりましたよ。」
「そうなんだ。」
「五台山では今でも、両仏教の僧侶たちが集まり、合同の大会が行われますよ。」
「はい。」
「このような光景は、中国では五台山でしか見られませんよ。」
「そうなんですか。」
「そんな、宗派の違う仏教同士の、長い歩み寄りの歴史が大きく評価され、五台山は世界遺産として認定されたのでしょう。」
「わかりました。」
「誰もが納得するところですね。」
「なるほど。」
「五台山の中でも最も象徴的なものは、塔院寺にある白い巨塔ですよ。」
「はい。」
「塔院寺と言えば、五台山塔院寺の内にある空へ聳えているネパール建築である白塔は元大徳五年(西暦1301年)に建て、北京妙応寺の以外の白塔である。塔院寺の名はこの白塔から得て、市場に塔院寺と顕通寺は同じ寺院で、ここはもとの寺院の塔院だった。明の万歴七年ー十年(西暦1579~1582年)、寺院の殿に改築したため、それから顕通寺と分けて、独立な寺院になっている。中にはお釈迦の仏舎利が納められているため、五台山の至宝になっている。」
「この塔は高さ56mもあり、観光客を魅了する、五台山最大のハイライトとなっていますよ。」
「そうなんだ。」
「塔の前には、中国・チベット両仏教の僧侶たちが集っていますよ。」
「はい。」
「この山の特殊性が伺えると同時に、彼らが五台山独特の景観を演出していますよ。」
「はい。」
「世界遺産に登録されてから、五台山は多くの観光客を受け入れるようになりましたよ。」
「そうなんですか。」
「年間約200万人以上の人が、この地を訪れると言いますよ。」
「そうなんだ。」
「しかし、ここを訪れるのは、僧侶や観光客だけではありませんよ。」
「どういうことですか?」
「実は、昨今では若者が多く集まっていますよ。」
「そうなんだ。」
「山にある女学院では、800人の女性が尼僧になるために修行をしていますよ。」
「はい。」
「これは、現代中国社会の急速な成長に伴い、心の病を持つ人、社会生活で苦悩を抱える人が多くなったことが原因であると言われていますね。」
「そうなんだ。」
「傷ついた人たちも観光客も関係なく、色々な人々が集うこの山には、他の山にはない、人々を包み込む特別な力があるのかも知れませんね。」
「はい。」
中国の世界遺産と観光~承徳避暑山荘と外八廟~
「「承徳の避暑山荘と外八廟」は、中国皇室の中でも最大規模を誇る庭園ですよ。」
「そうなんですか。」
「外八廟と言えば、外八廟(がいはちびょう)は中国河北省承徳市にある避暑山荘を取り囲んでいる寺社の総称である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。外八廟とは清朝が管轄する寺院のうち、万里の長城の北側にある寺廟を意味しています。」
「避暑山荘と言えば、避暑山荘(ひしょさんそう)は中国、河北省、承徳市にある、清朝時代の離宮である。避暑離宮、熱河行宮とも。中国四大名園の一つでもある。総面積5460平方キロメートルで、周囲の城壁は10キロメートル。」
「承徳と言えば、承徳市(しょうとく-し)は中華人民共和国河北省に位置する地級市である。世界遺産に登録された清代の離宮である避暑山荘や外八廟を有する国家歴史文化名城である。承徳市は河北省東北部に位置し、首都北京から250キロの距離にある。」
「1994年に、世界遺産に認定されましたよ。」
「はい。」
「首都・北京市から南西へ約200km地点の、河北省承徳市にありますよ。」
「はい。」
「河北省承徳市と言えば、承徳市(しょうとく-し)は中華人民共和国河北省に位置する地級市である。世界遺産に登録された清代の離宮である避暑山荘や外八廟を有する国家歴史文化名城である。承徳市は河北省東北部に位置し、首都北京から250キロの距離にある。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「「承徳の避暑山荘と外八廟」は、「避暑山荘」と、その東北側の山麗にある「外八廟」からなりますよ。」
「そうなんだ。」
「外八廟は、「溥仁寺」「普楽寺」「安遠廟」「普寧寺」「普祐寺」「須弥山福寿之廟」「普陀宗乗之廟」「殊像寺」の、8つの寺院からなりますよ。」
「はい。」
「殊像寺と言えば、外八廟の一つである。「文殊道場」があるところで有名で、そのご利益を得るため、中国全土から信者が集まってくるところでもある。」
「普陀宗乗之廟と言えば、外八廟の一つである。「普陀宗乗之廟」は乾隆帝の60歳(1770年)の誕生日を祝うために造られ、1771年に完成しました。外八廟の中で一番規模が大きく、チベットラサのポタラ宮を模した大紅台が見所です。」
「須弥山福寿之廟と言えば、外八廟の一つである。須弥福寿之廟はパンチェン・ラマが住むタルシンポ寺を模して造られたお寺である。須弥福寿之廟は全国重点文物保護単位。承徳避暑山庄の北にある獅子溝の麓にある。」
「普祐寺と言えば、外八廟の一つである。普祐寺は普寧寺に隣接している。しかし普祐寺は火災などですでに主要な建物は現存せず、再建もされていないので、周辺のいくつか残っている建物を除き、建物の基礎 部分しか見学できない。」
「普寧寺と言えば、外八廟の一つである。清乾隆二十年(西暦1755年)から3年をかけて創造され、漢とチベットの寺廟を総合した形式になっている。寺内の大乘之閣は6層の建物で、高さ36.75m。閣内には松、柏、杉、楡(ニレ)、椴(シナノキ)の5種類の木材を使って造られ、中国国内で現存する最大の木彫り仏像の一つである、千眼千手観音像が安置されている。」
「安遠廟と言えば、外八廟の一つである。俗称は伊犁廟、武烈河の東岸に位置して、避暑山庄の東北にある。乾隆二十九年(1764年)建て、面積2.6面平方、中軸線はちょうど避暑山庄に向き、廟の内には主な建築は普渡殿で、殿の高さ27m、高大で、非常に立派である。」
「普楽寺と言えば、外八廟の一つである。普楽寺は乾隆三十一年(1766年)より建てられた。特徴は南側が中国式、北側がチベット式である。避暑山荘の東北、承徳市東部を流れる武烈河の東岸に建つ普楽寺。1766年(清の乾隆31年)の創建で、俗に円亭子とも呼ばれる。」
「溥仁寺と言えば、外八廟の一つである。承徳市街地の東を流れる武烈河の東岸に位置し、前寺とも称される。1713年(清の康熙52年)の創建で、外八廟の中で最も早く建造された寺院。」
「この外八廟と共に「溥善寺」「広縁寺」「広安寺」「羅漢寺」の4つの寺院も世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」
「羅漢寺と言えば、外八廟の一つである。羅漢寺は現存していません。」
「広安寺と言えば、外八廟の一つである。広安寺(再建中かもしれません)は現存していません。」
「広縁寺と言えば、外八廟の一つである。乾隆45年に建立した。」
「溥善寺と言えば、外八廟の一つである。康熙帝が60歳を迎える際、寺院を建立してこれを祝おうとするモンゴルの王侯貴族らの願いに応えて、溥仁(前寺)と溥善(後寺)の両寺院が建造された。溥という字は“普”と発音が同じで、普遍や広大という意味を表している。」
「「承徳の避暑山荘」は、頤和園、拙政園(蘇州)、留園と共に、中国の四大名園の一つとして数えられていますよ。」
「そうなんだ。」
「留園と言えば、留園は中国にある有名な古典園林であり、江南の歴史ある街蘇州に位置し、園内の建築は精巧を極め、奇石(太湖石)が多く名高い。1961年、留園は中華人民共和国国務院により最初の中華人民共和国全国重点文物保護単位の一つとして公表された。1997年、留園を含めた蘇州古典園林は世界文化遺産として登録された。」
「拙政園(蘇州)と言えば、蘇州 拙政園(世界遺産古典庭園)は、中国4大庭園の一つである。官界に失望した御史王献臣が故郷に戻り、明代正徳4年(1509)に唐時代文学者陸亀蒙の邸宅、元時代大弘寺だった旧址に庭園を建造した。面積約5ヘクタールの拙政園は蘇州の庭園の中で最も広く、見所が豊富な庭園で、まさに蘇州旅行のハイライトです。」
「頤和園と言えば、頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園である。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。」
「避暑山荘が着工されたのは、1703年ですよ。」
「はい。」
「清代の康熙帝が行幸で藩陽を訪れる際、その途中にある承徳を気に入り、避暑地にする施設を建設し始めましたよ。」
「はい。」
「藩陽と言えば、瀋陽市(しんようし)は、中華人民共和国遼寧省の省都である。欧米諸語では、ムクデン(Mukden)の名もよく用いられる。中国東北部(満州)の主要都市の一つ。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる渾河(こんが)の古名・瀋水の北に位置することから由来した。国家歴史文化名城に指定される観光都市でもある。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。都市人口は810万人と東北地方最大の都市である(2011年まで)。」
「清代の康熙帝と言えば、康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝である。諱(いみな)は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)、廟号(びょうごう)は聖祖、諡号(しごう)は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。」
「清と言えば、清(しん)は、清朝(しんちょう)、清国(しんこく)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。」
「しかし、建設中に康熙帝は亡くなり、結局完成したのは1790年、乾隆帝の頃ですよ。」
「そうなんだ。」
「乾隆帝と言えば、乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝である。清王朝の最盛期を創出する。諱(いみな)は弘暦(こうれき)、廟号(びょうごう)は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。」
「1790年には、この他に、外八廟、「乾隆36景」が完成しましたよ。」
「はい。」
「乾隆36景と言えば、1790年には、外八廟、「乾隆36景」が完成しました。」
「それ以降、避暑山荘は皇帝が藩陽と北京を往来する時に必ず立ち寄る場所になりましたよ。」
「はい。」
「避暑山荘と言えば、避暑山荘(ひしょさんそう)は中国、河北省、承徳市にある、清朝時代の離宮である。避暑離宮、熱河行宮とも。中国四大名園の一つでもある。総面積5460平方キロメートルで、周囲の城壁は10キロメートル。」
「北京と言えば、北京市は、中華人民共和国首都である。行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。」
「一年の半分をここで過ごすことになりますね。」
「そうなんだ。」
「避暑山荘とは言え、単に避暑のためだけに皇帝がここを訪れていたわけではなく、政務も執り行っていましたよ。」
「はい。」
「したがって、承徳という地名を取って、「承徳の離宮」とも呼ばれていますよ。」
「はい。」
「避暑山荘は、約10kmの城壁に囲まれていますよ。」
「そうなんですか。」
「建物の造りは、意外にシンプルに見えるかも知れませんね。」
「はい。」
「これは、康熙帝が派手な色彩を好まず、色合いを抑えたからですよ。」
「はい。」
「それが逆に落ち着いた佇まいを演出し、建物の美しさが引き立っていますよ。」
「そうなんだ。」
「城壁内周辺は「宮殿区」と呼ばれ、そこには正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の、4つの建物がありますよ。」
「はい。」
「松鶴斎と言えば、宮殿区の東側中央に建つ松鶴斎は、1749年(清の乾隆14年)の創建。聖憲皇太后(乾隆帝の母)のために造られた宮殿で、長寿の願いを込めて松と鶴の文字を使い、松鶴斎と名付けられた。」
「避暑山荘は湖で囲まれていますよ。」
「はい。」
「そこから舟に乗り、のどかな時間を過ごしながら山荘の景色を眺めるのも素敵ですよ。」
「そうなんだ。」
「避暑山荘と外八廟は、「宮殿区」以外の場所を「苑景区」と呼び、その中を、地形に則って、「湖沼区」「平野区」「山岳区」と区別して呼んでいますよ。」
「はい。」
「外八廟は、中国の数ある建築物の中でも、異色な存在ですよ。」
「そうなんですか。」
「外八廟と呼ばれる寺院群は、チベット仏教保護のために造られましたよ。」
「そうなんだ。」
「チベット仏教と言えば、チベット仏教は、チベットを中心に発展した仏教の一派である。チベット仏教は、根本説一切有部の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。」
「そのため、チベット建築の影響を色濃く受けていますよ。」
「なるほど。」
「チベット建築と言えば、チベットの建築物は高原の厳しい気候の変化に堪えうる厚い石壁、土壁と陸屋根のどっしりとした外観と、チベット仏教文化の育んだモチーフを基調とした手の込んだ彫刻、多様な色彩で飾られた美しい木製内部構造で構成され、チベットの文化を代表するものであります。」
「中国様式とチベット様式を折衷した、独特の雰囲気が醸し出されていますよ。」
「はい。」
「例えば、普陀宗乗之廟は、チベットの中心地にあるポタラ宮をモチーフにして造られましたよ。」
「はい。」
「チベットの中心地にあるポタラ宮と言えば、ポタラ宮は1642年、チベット政府「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地としてチベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された宮殿である。」
「普陀宗乗之廟と言えば、外八廟の一つである。「普陀宗乗之廟」は乾隆帝の60歳(1770年)の誕生日を祝うために造られ、1771年に完成しました。外八廟の中で一番規模が大きく、チベットラサのポタラ宮を模した大紅台が見所です。」
「チベットと言えば、チベットは、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東はきょうらい山脈(さんみゃく)に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称である。」
「須弥山福寿之廟は、歴代ダライ・ラマなどが政務を行っていたタシルンポ寺を模して造られていますよ。」
「そうなんだ。」
「歴代ダライ・ラマなどが政務を行っていたタシルンポ寺と言えば、1447年にツォンカパの末弟子にして後の第1世ダライラマゲンドゥンドゥプがウーツァンの大貴族の援助を得てタシルンポ寺を建立。タシルンポ寺はシガツェ地区の最も大きい寺で、シガツェ市西の尼瑪山の東側の坂に位置し、4世以後の歴代の班禅が駐在する場所である。」
「須弥山福寿之廟と言えば、外八廟の一つである。須弥福寿之廟はパンチェン・ラマが住むタルシンポ寺を模して造られたお寺である。須弥福寿之廟は全国重点文物保護単位。承徳避暑山庄の北にある獅子溝の麓にある。」
「チベットの要素を取り入れただけでなく、平野区は、整備される際に、モンゴル高原を真似たと言われていますよ。」
「はい。」
「モンゴル高原と言えば、モンゴル高原は、モンゴリア(Mongolia)とも言い、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地である。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古あるいは蒙古高原と言う。」
「したがって、外八廟では、多彩な文化様式を見ることができますよ。」
「はい。」
「中国は国土が大変広いため、この「承徳の避暑山荘と外八廟」のように、異文化とうまく融合してできたものが沢山ありますよ。」
「そうなんですか。」
「世界遺産に認定されている所は、そんな中国文化の多様さを代表する所とも言えるでしょう。」
「はい。」
「中国を旅するなら、代表的な中国建築を有する観光地だけでなく、避暑山荘と外八廟のようなエキゾチックな所を訪れることも、大変魅力的だと思いますよ。」
「わかりました。」
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